滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

1‐1「恤救規則」 明治7年(1874年)12月8日

 近代日本最初の救貧法。明治7年1月20日、滋賀県令松田道之が内務省に提出した旧彦根県(藩)在住者の救助願が契機となり制定されました。救貧事業は親族や町村など「人民相互ノ情誼」で行われるべきであり、政府からの給付を乞わずに済ませるのが本旨とされています。働くことができず、身寄りのない貧困者に対して米代が支給されました。当初の給付期間は、内務省の指示を仰ぐまでの50日以内だったものの、同9年には撤廃されました。【明あ98(120)】

 

1‐2「重症飢餓の行旅病人救護方及費用」 明治16年(1883)3月14日

 明治期の身寄りのない貧困者は、まず町村が救助すべきものとされました。例えば明治16年度の町村救助総額(1,954円)は、国費(925円)の2倍以上となっています。その一方、同16年度より県予算(地方税)に登場した「救育費」は、行き倒れの護送手当や薬・食料費などでした(190円)。さらに翌年度からは、身寄りのない入監女性の乳児養育費のうち、国費不足分が計上されています。県は主に町村・国の救恤を補う役割を担っていました。【明い138(14)】

 

1‐3「救恤願具申書」 明治24年(1891)3月20日

 恤救規則が施行されてしばらくは、国費救恤の申請様式は存在しませんでした。しかし書類の不備が問題となり、明治22年10月18日、救恤を申請する場合には、町村長の上申書や警察の調書、戸籍の写などを提出するよう定められました。この際町村長は、本人の来歴や困窮状況に加え、町村費で救助できない理由を明記する必要がありました。本史料でも、村のわずかな金額では、一時的な救助にとどまり継続が難しいと説明しています。【明そ1(8)】

 

1‐4「国費救助の件」 明治41年(1908)7月8日

 町村の救助総額は、明治20年代末から急増し、明治30年代は平均3,805円にもおよびました。それに合わせて国からの救恤額も増え、同時期の平均額は2,183円となっています。これに危機感を強めた内務省は、明治41年5月21日、恤救規則の本旨を強調し、「濫給ノ弊」をなくすよう求めました。同年7月には、県より各郡市にその旨が伝えられ、その結果、国からの救恤を受けていた者全員が給付を打ち切られることになります。【明い272(62)】

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