1‐1「道路掃除規則」 明治5年(1872) 8月
文明開化が進み近代的な衛生観念が広がりを見せるにつれて、伝染病の温床となる街道の牛馬糞散乱を予防することが、課題となりました。この規則は全15条からなっており、前文において県令松田道之は、無用の物を有用な肥糞へと変えることが病気の予防となり、物産の繁盛・国益増加の基礎にもつながる、と説いています。条文では、朝晩の軒先掃除と牛馬糞の肥料活用が規定され、各家の掃除範囲も敷地だけでなく道路の中央までと、細かく指定しています。【明い31(18)】
1‐2「逢坂山修繕中、通行人への心得」 明治7年(1874)10月29日
古来より、逢坂山は関所が設けられ、交通の要所・難所として知られていました。多くの旅人が行き交い、物資運搬の利便性を高める車石も整備されていました。この文書は、明治時代の修繕にあたり、県が工事中に設置した案内板の起案書です。往来の人びとに石や砂に気をつけるよう、注意をうながしています。左ページに記載されている「伺之通 明治七年十月廿九日 県令」という朱筆は滋賀県初代県令、松田道之の直筆と考えられます。【明い192-2(56)】
1‐3「馬車開業の件」 明治6(1873)年2月8日
明治時代に入り、それまでにはなかった馬車が姿を見せます。この文書では、京都府東若宮町(現上京区東若宮町)の田中寅吉という人物が、大津浜での通行営業を開始することを告知し、特に馬車と牛馬・人力車が行き違いになる時は互いに左へ寄るよう定めています。開業から6年後の明治12年の時点で、県下には7台の馬車があったとされていますが、3000台近くに及ぶ人力車に比べれば、まだ珍しいものだったと言えます。【明い36(54)】
1‐4「観音坂隧道開削に付、奉願口上書」 明治9(1876)年9月11日
かつて、坂田郡長浜から岐阜県不破郡関ヶ原までは、伊吹山のふもとにあたり、冬には大変雪深い交通の難所となっていました。とくに、石田村(現長浜市)と春照村(現米原市)の間に位置していた観音坂は道が険しかったため、地元住民たちは坂の開削切り抜き工事を願い出ます。しかし、この工事はすぐにはできず、昭和8年の県工事による完成まで待つことになります。完成した隧道(トンネル)は、今年3月26日に完成した新トンネルに代わられるまでの間、長く人々に利用されました。【明な332-1(2)】
1‐5「鉄道建築に付、工部省達」 明治11(1878)年6月21日
工部省から滋賀県に達せられた三件の鉄道建築指令書の写しです。京都から大津間、米原から敦賀間、長浜から関ヶ原間の達(たっし)が、それぞれ工部省御用取扱の伊藤博文、工部卿の山田顕義、佐々木高行らによって出されています。特に、京都-大津間で工事された逢坂山トンネルは日本人技師のみによって行われており、外国人の手から離れる契機となりました。【明と3-4(1)】
1‐6「甲賀郡大砂川隧道工事目論見帳」 明治17(1884)年頃
大砂川隧道は、県下最初の隧道として築造されました。大砂川は、東海道と交差する交通の要所でありながら、天井川として川越えをする多くの旅人の往来を水害などで悩ませていました。明治18年4月16日、長さ16.4メートル、幅4.4メートルの構造アーチ両側切り石積みの隧道が完成します。土木遺産の価値としては、重要文化財にも相当すると評価されています。【明な337(7)】
1‐7「草津川隧道工事目論見調査の件」 明治18(1885)年11月30日
栗太郡大路井(おちのい)村(現草津市)の草津川隧道の工事目論見書を作成するため、技師派遣を上申した文書です。草津川も大砂川と同じように天井川であり、かつ東海道と中山道が交わる交通要所という二つの特徴がありました。地元の人びとは水害に悩まされたため、県令中井弘に工事の請願を行います。明治19年3月20日には藤田組が施工を請け負い、長さ43.6メートル、幅4.5メートルの隧道が完成しました。【明う108(82)】
1‐8「御幸橋改築工事に関する請願書」 明治24(1891)年11月
愛知(えち)郡の御幸橋は、明治23年に橋梁の改修工事に着工し、明治24年9月には一応の完成をみました。しかし、10月に開かれた渡橋式に大勢の群衆が押し寄せたため、落橋事故を起こし多くの人びとが亡くなります。この請願書は、事故を受けたのち、再度地元町村長が橋の再改修工事を求めて提出したものです。この請願を受けて、御幸橋は明治26年7月13日、本県最初の鋼橋として、ついに完成をはたしました。【明に20(2-1)】








