2-1「第4回大日本連合短艇競漕会開会式式辞」 明治31(1898)年8月7日
ボート競漕大会の最も古い記録は、明治28年7月に開催された琵琶湖連合競漕会です。これは、県主催で行われた短艇競漕大会で、関西の各大学の他、東京からの参加もありました。この史料では、第4回大会に際し、組織改良と会務拡張に取り組もうとする記述が見られます。大会名称も大日本連合短艇競漕会に変更されました。短艇とはカッターボートともいい、手こぎボートの一つを指します。【明お58-1(41)】


2-2「和船競漕大会における湖面一時使用願」 大正13(1924)年9月8日
京都日出新聞社(現在の京都新聞社)が主催した和船競漕大会に関する史料です。京阪石山坂本線の浜大津―島ノ関駅間付近の琵琶湖湖面で開催されました。和船とは、古代の丸木船以来、国内独自で発達した船を指し、船底に側面板を継ぎ合わせた構造をしていました。琵琶湖を代表する和船には丸子船があげられます。【大ぬ20(106)】


2-3「京都帝国大学学友会端艇部主催競漕大会競路略図」 大正13年(1924)7月24日
大津市石場浜の琵琶湖湖面において開催された短艇競漕大会のコース図面です。この図面より、中等学校と高等専門学校の発艇線(スタート位置)がそれぞれ別位置に図示され、中等学校が1100m、高等専門学校が1300mで争われたことがわかります。京都帝国大学学友会端(短)艇部は、明治39年(1906)に大津市三保ヶ崎で行われた第1回水上大会に合わせて結成された団体で、大会時には同大学だけでなく、近隣府県の学校も参加しました。【明う171(54)】


2-4「通常県会における社会教育課主管説明資料 湖周駅伝競走関連」 昭和10(1935)年
大正8年(1919)10月、当時の知事堀田義次郎によって提唱された琵琶湖一周リレー競走会が行われました。この競走会は琵琶湖を3日がかりで1周するもので、同13年の第6回大会で一度は中止されたものの、昭和10年11月に琵琶湖一周駅伝競走大会として復活します。史料では、当時の県社会教育課において大会の再開を計画していたところ、大阪毎日新聞社大津支局でも同様の計画があり、両者一体で開催する内容を伝えています。大会は同14年の第5回大会まで行われました。【昭き13-2(13-4)】


2-5「事務引継書 近畿中等学校野球大会に関して」 昭和11(1936)年
この大会は、昭和7年より年に1回の割合で開催され、第5回大会は大津市緑ヶ丘球場が会場となりました。第1回大会より久邇宮朝融(あさあきら)王の台覧があり、今回も同様に台覧を仰ぐ内容が記されています。大会へは近畿各府県より2チームずつが出場したようです。【昭お9-1(7-3)】


2-6「緑ヶ丘仮停留場新設届」 昭和5(1930)年7月7日
緑ヶ丘球場は、昭和2年7月、地元地主の土地を借りて京阪電鉄が建設した球場です。現在の大津市藤尾地区にあり、一部は藤尾市民運動広場となっています。昭和5年7月に開催された全国中等学校野球大会京津予選では、同電鉄京津線四宮―追分駅間に、試合期間中「緑ヶ丘運動場前仮停留所」が設けられ、観客の利便を図りました。この球場は昭和17年頃まで存在しますが、食糧増産のため芋畑へと変わり、同20年、京阪電鉄が用地を地主に返還して姿を消しました。【大と20(15-1)】

2-7「地方長官会議参考事項 体育衛生」 昭和12(1937)年5月
県所蔵史料の中で、「オリムピック」という語句が登場する数少ない史料の一つです。日中戦争(昭和12~同20年)などの影響から実現には至りませんでしたが、昭和15年のオリンピック開催は東京で予定されていました。この史料では、全国的に有名な県の競技は端艇(ボート)であること、県が最も力を入れているスポーツは琵琶湖を利用した水泳であることがわかります。そして、県よりオリンピック東京大会へ選手を輩出させるため、陸上と水泳の2種目について講師を招き、講習会を開く予定であるとしています。【昭お45(24)】

