1‐1「学制」 明治5年(1872) 8月2日
西洋から伝えられた体操は、早速学校の教科として取り入れられました。史料中に「体術」と示されています。しかし、導入当時この内容を知る人は少なく、指導者もいませんでした。明治6年に「体術」は「体操」へと改称され、明治政府は1日1~2時間実施することや、体操の絵図が描かれた『東京師範学校板体操図』を手本とする指示を出します。ただ、それでも理解できる人は少なく、十分な指導はなされなかったようです。【明あ19(214)】
1‐2「滋賀県小学校規則草按」 明治25年(1892)3月11日
明治11年10月、東京に体操指導者を育成する体操伝習所が設置されると、学校教育における体育が全国に普及しました。この史料は、授業時間や教科内容をまとめたものです。「体操」の教科を見ると、尋常小学校においては、「遊戯」を初めに行い、しばらくして「普通体操」を加え、男児には「兵式体操」の一部を教えることとあります。そして高等小学校では、男児には主として「兵式体操」を、女児には「普通体操」もしくは「遊戯」を教える定めとしました。また、適宜戸外運動や水泳をさせる記述も見られます。【明し174(33)】
「遊戯」・・・・徒競走や野球などスポーツ競技を主な授業内容としていました。
「普通体操」・・徒手体操や器械体操といった身体運動の授業を指します。
「兵式体操」・・整列や行進を主とする隊列運動が行われる授業です。
1‐3「体操科教材配当及設備」 大正9(1920)年10月13日
当時の体操授業に必要な設備と器具とが記された史料。この中には、尋常小学校・高等小学校の各学年における授業内容を、具体的に示した表も添付されています。【大し185(21)】
1‐4「兵式体操用銃器購入の義稟申」 明治29(1896)年9月16日
これは、県商業学校(現在の県立八幡商業高校)から県に対し、生徒増員のために生じた銃器不足分の購入を求める内容の史料です。明治19年の同学校設立前に出された「滋賀県商業学校規則」において体操の教科が定められ、その教科に兵式体操で銃器を扱う課程がありました。県立学校による銃器の補充は、一度県に申し出がなされ、県より陸軍省に払い下げを求める手続きを取っていました。【明し33-2(36)】
1‐5「第1回県下中等学校連合射撃大会要綱」 昭和7(1932)年5月16日
大正14年(1925)、公立の中等学校以上の学校に陸軍現役将校が配属され、これまでの「兵式体操」より軍事教育の要素を踏まえた「教練」が教科に導入されました。この史料は、昭和7年10月、皇子山射撃場(現在の大津市山上町)で第1回県下中等学校連合射撃大会が計画されたことを示すものです。精神の涵養や規律厳守、武力向上が大会の目的で、各中学校から代表の生徒合計140人が出場し、一人5発ずつ的に当てその点数を競うルールを定めています。【昭し157(15)】
1‐6「水泳場図面」 昭和2(1927)年6月2日
県の学校教育で水泳が導入されたのは、大津市教育会によって紺屋ヶ関(同市浜町付近)で指導が行われた大正14年(1925)以降のことでした。これは、滋賀郡膳所町(現在の大津市)の琵琶湖湖面に設定された臨時水泳場の図面です。県師範学校が生徒の水泳練習のために設けました。【昭ぬ19(18)】








