2-1『滋賀県会日誌』第31号 明治15年(1882)5月17日
数年にわたる調査検討の末、ようやく明治15年度地方税予算に、東浅井郡水害除却工費33,841円75銭2厘が計上されることになります。しかし通常県会では、同年における多額の地方税支出を懸念する意見や、恩恵を受ける地域が限られるなどの反対意見が数多く出されました。かたやこの大工事の地方税負担を止めれば、到底村の協議費では賄えないという意見も出されましたが、結局出席議員39名の内20名の過半数が反対し、否決されてしまいます。(議会事務局蔵)

2-2「水害除害工事の儀に付嘆願書」 明治15年(1882)6月2日
治水工事が否決された通常県会は、水害4か村の総代として、月ヶ瀬村の前田荘助と酢村の国友長左衛門も傍聴していました。議場の様子を「実ニ切歯シテ」見守っていた彼らは、改めて籠手田県令に切迫した状況を訴え、速やかな起工を懇願しました。これを受けて籠手田は、6月7日、県会に再議を命じますが、議員らは「直チニ県令ニ返上セン」と反発して再び否決されます。さらに19日には、2度目の再議を指示するも、結果は変わりませんでした。【明ぬ135(41)】

2-3「治水費県会に於て否決の義に付再伺」 明治15年(1882)8月8日
治水工事の県会否決を受けて、明治15年6月28日、県大書記官河田景福は内務省に地方税の支出許可を求める伺書を提出しました。府県会規則第5条において、県令が県会の議決を認可すべきでないと判断した際、内務省の指揮を請うことと定められていたからです。しかし内務省からの電報は、「キキトドケガタシ」との返答でした。本文書は、再度県令籠手田安定自ら内務省に提出した伺書です。地方税支出は「当然ノ筋ト確信候」と訴えています。【明く47-2(7)】

2-4「内務省にて応接の摘要」 明治15年(1882)9月
8月22日には、大書記官河田景福が内務省に直接事情を聞き質すため、東京に出立しています。25日より始まった内務省での交渉では、治水費の負担は、地方税か村の協議費かの判断が非常に難しいとの説明を受けました。そのため、たとえ県令が地方税に属すべきだと主張しても、県会の判断に従わざるをえないとのことでした。しかし河田は、次年度の県会での再提出までは否定していないという言質をとったことで、ひとまず帰県を決めます。【明く47-2(17)】

