滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

1-1「浅井郡水害所一覧絵図」 明治8年(1875)4月5日

 月ヶ瀬・田・酢・唐国の水害4か村(現長浜市)は、古来より田川・高時川・姉川という3河川の合流地点で、大雨の度に大きな氾濫に見舞われました。幕末には田川を分水し、高時川の下を伏越樋(ふせこしひ)で通す工事がなされますが、木製のため腐朽が激しく、その後も水害は起こり続けました。そのため4か村は、高時川の曲流部分を直流に付け替え、田川の分水が流れる新川の伏越樋を石造にして本流にするという治水工事を県に要望しました。【明ぬ100(2)】

 

1-2「三河川落合場所変更の図」 明治6年(1873)12月15日

 その一方、3河川合流箇所の下流に位置する新居・野寺・八木浜・大浜・川道・南浜の6か村(現長浜市)は、別の治水工事を構想していたようです。本図面の赤線で示されているように、合流箇所を3町ほど下流にずらすという工事を県に願い出ています。これら6か村は、水害4か村とは逆に、日頃から旱魃に悩まされ、晴天が続いても枯れることがない田川の用水に期待したのです。彼らは田川の流水を変更する4か村の治水工事には、強く反対しました。【明ぬ100(1)】

 

1-3「新川修繕の図」 明治8年(1875)12月5日

 新川の下流に位置する落合・錦織両村(現長浜市)にとっても、同川の治水工事は切実な課題でした。伏越樋の破損は、両村に水害の危機をもたらすため、その修繕を強く水害4か村に求めたのです。4か村は幕末の新川普請の際に、その修繕の義務を負う約条書を交わしていました。彼らは落合・錦織両村に約束違反を追及され、万一新川を埋め立てることになれば、「全ク魚類同様の在様」になってしまうと、県にその官費負担を訴えました。【明ぬ116(40)】

 

1-4林蕃著『三河川重要摘集』 明治10年(1877)11月

 複雑な利害関係が絡む3河川の治水工事は、県としても容易に判断を下すことができませんでした。それぞれの利害得失を調査するとして、いずれの治水構想も留保されることになります。本書はその判断の参考資料として、県嘱託の林蕃が著した3河川の調査報告書です。明治10年10月に発生した水害の様子や、河川の流水状況が図入りで解説されています。【行政資料394】

 

1-5「水害地必困の義に付御願書」 明治12年(1879)3月20日

 度重なる請願にも関わらず、一向に起工が進まない状況を見かねた水害4か村は、1万円の上納金を申し出ました。工事が着手されれば、各村の水害難地約180町から、1反(0.1町)につき5円56銭を支払うという計算です。5月にはさらに5千円を増額し、計1万5千円の上納金を確約しました。その後、この已むに已まれず申し出た上納金の約束に4か村は苦しめられ、村民の家財や寺院の建物などを売り払って、何とか皆納したようです。【明ぬ134(30)】

 

1-6「迅速施行を求める意見書」 明治12年(1879)5月28日

 水害4か村からの上納金の申し出を受けて、租税課土木部の岡田直之・市川定義は、この切迫した民情を酌量して「迅速施行スルニ他ナシ」という意見書を七里定嘉課長に提出しています。これに対して七里は、当水害地は容易ではない難所のため、「軽忽ニ着手シ難シ」として、土木局御雇工師のデレーケに調査を依頼することにしました。この調査結果をもとに、伏越樋を煉瓦製にして、新川を本流にする田川カルバート構想が進められることになります。【明ぬ136(28)】

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