2-1「酒税其外税則等御改正の儀に付伺書」 明治4年(1871)9月晦日
江戸時代において酒造業は、米価調節の必要から、幕府が発行した酒造株(鑑札)所有者に限って許され、その生産量も制限されていました。明治4年7月、明治政府は酒造株を撤廃し、酒造業開業の自由を認めます。本文書はその税額の基準となる酒の平均価格に関する大津県の伺い書です。酒造業者が少ない地域では調査が困難なので、郡ごとに1か所ずつ業者が多い地域を選んで平均価格を算出してもよいか、大蔵省に伺い出ています。【明う159(40)】

2-2「酒造桶類取締規則」 明治8年(1875)11月7日
明治8年2月、明治政府は酒類税則を制定し、従来の免許税を廃して、酒税を営業税と醸造税の2種類に整理しました。前者は1期ごとに10円、後者は売値の1割です。ただし引き続き、営業には免許鑑札が必要で、許可なく営業した者には罰金が科せられました。同年に県が定めた本規則では、酒造業に用いる桶類は、全て官員の調査が必要だと記されています。桶の口径・低径・深さに加え、醸造する石高の認定が求められました。【明い68(43)】

2-3「酒屋会議出席の警告」 明治15年(1882)4月24日
明治13年9月には、新たに酒造税則が制定され、酒税が大幅に増徴されることになりました。多くの酒造業者が経営不振に陥り、同15年5月には「酒屋会議」という全国の酒造業者の集会が企画されました。それに対して、県令籠手田安定は、同集会を「国安ヲ妨害」するものだと批判し、県内の酒造業者が参加しないよう郡長に注意を促しています。しかし同集会には、彦根の酒造家・中村吉太郎が出席し、政府に酒税軽減歎願書を提出しています。【明い96(107)】

2-4「酒造人心得書」 明治16年(1883)10月15日
酒造税則の布告にともない、明治13年11月、大蔵省はその取扱心得書を布達しています。しかしその後、同税則の改正が相次いだため、各府県で独自の心得書が制定されるようになりました。本県の心得書は、同じ年の10月11日に定められた京都府のものと類似しており、作成する上で参考にしたと考えられます。新規営業の申請方法や生産見込量の報告方法など、酒造業を営む上で欠かせない手続きなどが記されています。【明い137(37)】

2-5「渡船から滋賀渡船へ」 明治32年(1899)4月
明治28年4月、滋賀郡膳所村(現大津市)に農事試験場が設立され、米の品種改良が大きく進みました。大正期に同試験場で生まれた「滋賀渡船」は、本史料に見られる「渡船」を品種改良した酒造好適米です。酒米として著名な山田錦の親系統にあたり、一時は県内全域で生産されていました。昭和34年に生産が中止され、長らく「幻の酒米」として文献に残るだけの存在でしたが、平成16年に県が品種保存していた種子から復活を果たしています。(滋賀県蔵)

2-6「富田八郎の事績」 大正12年(1923)
清酒「七本槍」の改良を図った富田八郎の事績書。養蚕業の盛んな伊香郡は、数百年前より桑酒で知られたものの、清酒は低品質で郡内の需要を満たすに過ぎませんでした。代々酒造業を営む富田家の養子となった八郎は、若くより伊香酒の改良を志し、醸造試験場で研鑚を重ねます。その結果、「七本槍」は宮内省御用達となり、品評会でも最優位を占めるようになりました。大正11年には伊香郡酒造組合を設立し、同郡の酒造業の発展に大きく貢献しました。【大え67(47)】

2-7「昭和14年の酒蔵広告」 昭和14年(1939)9月
『滋賀県商工人名録』に掲載されている広告。藤居本家酒造(愛知郡愛知川町)の「旭日」や、大星岡村本家(愛知郡日枝村)の「金亀」など、現在も製造されている銘柄が確認できます。また本書では、西川仁右衛門吟醸(高島郡今津町)の「日之出正宗」や、桑原酒造店(高島郡新儀村)の「若恵比寿」など、廃業を余儀なくされた酒蔵の銘柄も見ることができます。【行政資料511】

