1-1「大津米相場の沿革」 大正12年(1923)
近江国(滋賀県)は、古来より米の生産地として知られ、天正・文禄期(1573~1596)には、大津は既に一大市場を形成していたといいます。江戸時代になると、浜通りに蔵屋敷が並び、正保元年(1644)には、米の卸売市場である米会所が設けられました。本文書は、本県の商況と営業を広く紹介するために出版された『滋賀県がいどぶっく』の一節です。著者の北村重之助は、大津商業会議所の書記長を務めていました。【行政資料577】

1-2「江州米の名声」 明治41年(1908)
江戸時代より江州(近江)米は、品質がよく、乾燥・調製・俵装も完全であったことから、その名声は広く世間に知られていました。当時の租税(年貢)は米納であったため、どの藩も厳格な規制を設けて、その米質を確保していました。米蔵は全て大津に置かれ、同地の米商を通じて京都に運ばれました。その米は京都の御備米と呼ばれ、京都以外への販売が禁じられていたものの、その評価の高さから十分な需要があったようです。【明え238(1)】
1-3「県治所見」 明治7年(1874)1月11日
明治維新後も、初代県令松田道之は、江州の数ある物産のなかで、米を筆頭にあげ、その品質は「固有ノ良位」を保ち、製法も申し分ないとたたえています。今後、輸送手段が発達し、海外の輸出が盛んになれば、現在の「江州米」から「日本ノ名物品」になるだろうと、惜しみない評価を与えました。松田はこれから新しい事業を始めるよりも、まずは県の「固有ノ物品」をおろそかにしてはならないと、在来産業の育成を呼びかけています。【明い246(2)】

1-4「米品評意見書」 明治15年(1882)3月31日
明治15年2月1日から3月30日まで、米麦外3品共進会(品評会)が東京上野で開催されました。県内からは1,652人が出品しましたが、受賞したのは1割に満たず、近江国は「中等部ノ上品」という評価にとどまりました。甲賀郡を除けば、調整・乾燥が不十分で、その改善は「近江国人民ノ急務」だと指摘されています。同会では「江州の掃き寄せ米」と酷評されたともいわれ、米質に自信をもっていた県内の生産者に大きな衝撃を与えました。【明た32(84)】

1-5「低下する米質」 明治23年(1890)
実は近江米の品質は、明治8年の地租改正を契機として、次第に低下していたようです。租税が全て金納になったことから、米質の規制が弛緩し、小粒で粗悪な米が広がっていました。乾燥・調製は不十分なままで、俵装も濫造に流れました。一重俵で堅縄が用いられなかったため、揚げ卸しの際には、こぼれ落ちる米も少なくありませんでした。そのため貧困者が米商の門前や船着場に集まり、塵取りや手箒で米をかき集める光景さえ見られたようです。【明て54(66)】

1-6「農事規約例」 明治17年(1884)5月8日
米の乾燥期間や調製の方法などを郡村ごとに守らせるために定められた県の規則。しかし罰則・強制規定はなく、その「改良心」は地域により様々だったようです。速やかに規約を設けて実績を上げた村があった一方、規約を設けず他人を非難するばかりで実行に至らなかった村もありました。同規則が守られなかった背景には、県内の米商が米質改良に関心を示さず、むしろ農家を煽動して妨害していたこともあったようです。【明い144(51)】

1-7「米質改良組合の結成」 大正期
明治21年7月、勧業委員の堀井新治郎らは、農商ともに1つの組合規約のもとで米質改良に努める必要性を説き、全国でも例外的に制裁規定をもった米質改良組合が結成されます。堀井は蒲生郡岡本村(現東近江市)に生まれ、紅茶伝習所現業取締や岐阜県御用掛などを務めた人物で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者として知られています。この組合には、他県から規約書の請求や視察員の派遣が相次ぎ、その後全国で同様の組合が生まれました。【大ふ7(28)】

1-8「近江米に関する各種機関の分布及収穫高比較図」 明治40年(1907)
米質改良組合では、各村に検査所を設置し、全ての生産米に対して、乾燥・調製・俵装の検査を行いました。さらに他府県に輸出する米については、各郡要所に設けた輸出米検査所で、品質に応じた等級記号(1~5等)を付けました。米質は、品質・色沢・形状・乾燥・調製の5点から評価されたようです。本図では、輸出米検査場が置かれた場所に△印が記されています。【明て61-4(1)】

1-9「関西府県連合共進会の概評」 明治30年(1897)10月25日
明治28年に開催された第4回内国勧業博覧会において、米質改良組合が表彰の栄誉を受けます。さらに明治30年の第6回関西府県連合共進会では、大粒で品質良好のものが多いのは、他府県の遠く及ばないところだとして、近江米が「本会ノ出品中ニ冠タリ」との評価を受けました。かつて「掃き寄せ米」と評された近江米は、その名誉を十分に回復したといえるでしょう。その成果に自信を得た同組合は、明治31年に近江米同業組合へと改称します。(国立国会図書館蔵)


