滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

1-1「湖川諸漁猟藻草及ヒ泥取規則并税則」 明治7年(1874)6月17日

 江戸時代までは、諸藩がそれぞれの政策で琵琶湖における漁業を統制していましたが、近江国全体にわたる保護政策はありませんでした。明治時代に入り、初代県令松田道之は、特定の区域の中で独占的に漁ができる「借区免許」、特定の漁法であれば特定区域で独占的に漁ができる「専稼免許」、借区を除いた一般の湖上で漁ができる「雑稼免許」の三種類による鑑札免許制を定めました。【明う48(-)】

 

1-2「魞漁の禁止」 明治12年(1879)7月8日

 多くの伝統的な漁法のなかでも、魞漁は「酷密ヲ極ムルモノ」だったようです。稚魚の育成を阻害するもので、将来の漁業への影響が大きいとされ、明治12年には、県から規制されることとなりました。段階的には規模を縮小し、同17年の全面禁止が目標とされています。史料1.の規則も同12年に改正され、最も権限の強い「借区免許」が認められなくなりま した。【明い105(75)】

 

1-3「滋賀県漁業取締規則」 明治41年(1908)3月9日

 琵琶湖や県内河川の魚を保護するため、全32条にわたり定めたものです。水産動植物の繁殖・保護のため魚籍をもうけ認可制を採りました。また、漁業の行えない保護区域や禁漁期間、魚場ごとの漁具の制限などを定め、違背者には漁具や漁獲物の没収などの罰則が加えられました。【明い25-2(10)】

 

1-4「第3回内国勧業博覧会へ、ヒガイ出品の義」 明治22年(1889)12月

 明治23年(1890)に東京上野公園で開催された内国勧業博覧会に、蒲生郡島村と同郡沖島村で捕ったヒガイ魚出品の可否を、同郡役所が県に問い合わせたものです。ヒガイは琵琶湖の固有種であり、全長20センチほどに成育します。史料中でもこのヒガイを「湖魚中、最も名魚につき」と評価しています。【明て51(91)】

 

1-5「鮎地引網漁業調査復命書」 昭和5年(1930)5月

 昭和5年に、県職員から田寺俊信県知事に提出された調査報告書です。この調査は、漁業取締規則の改正に反対する漁業者への反証のため作成されました。主に鮎地曳網従業者について記され、法改正以前の漁具と新たに導入される漁利増進や繁殖・保護に有効とされる漁具との比較などを調査しています。この報告書からは、地元漁業者がこの法改正に伴う新漁具新調による経済負担増加を憂慮していることが分かります。【昭つ35(1)】

 

1-6「和邇村提出古書類写し」 明治34年(1901)9月

 漁業者にとって、近代以前の為政者によって発給された古文書は、非常に大切なものでした。それは先祖から引き継いできた漁業の慣行を証明するものだったからです。明治34年制定の漁業法で、従来の「慣行」が漁業権という形で権利化され、旧来の村に代わって漁業組合に付与されることになりました。この写しは、制定を受け滋賀郡和邇村の人びとが漁業権を認めてもらうために作成したものであり、慶長期から文政期にわたる内容です。漁業者にとって「記録の継承」がいかに重要であったかうかがえます。【明つ26-1(2)】

 

1-7「定置漁業免許状」 明治36年(1903)

 免許状は、漁業者の申請により更新が重ねられていきました。更新期間はおおむね1年から2年程度で、個人もしくは団体で漁場図を添付し申請していました。免許状には漁業の種類、名称、漁場の位置、漁獲物の種類、漁業時期が記され、「水産植物の蕃殖、保護その他公益上必要あり」と認められた時は、制限や停止などの処分が加えられました。【明つ10(6)】

 

1-8「漁業免許交付の陳情書」 大正11年(1922)5月

 高島郡百瀬村の漁業者による特別漁業免許交付の嘆願書です。明治時代になり、旧来の魚場占有利用権は形式的にいったん消滅し、政府の免許によって発生することになりました。この陳情書は、同村近辺の漁業権を獲得した一個人に対し、その影響により漁場を制限された村民が、自分たちにも免許を与えてほしい、という訴えです。結局この件は、その一個人と嘆願者の間で調停が行われ、村民にも5パーセントの利益分与をすることで、和解が成立しました。【明つ22(24)】

 

1-9「魞漁場認定図」 明治36年(1903) 3月

 野洲郡、蒲生郡、県関係者立会いのもと、野洲郡北里村、蒲生郡岡山村の漁業者が署名した漁場認定図です。蒲生郡大名川に置かれた魞漁場の位置に関し、野洲郡北里村より異議が唱えられたため、両村の関係者が北里村役場に召集され、認定図を作成しました。大名川の中央は両村の境界線があり魞の設置に関していさかいが生じましたが、この認定図で両岸からの網設置地点が細かに定められ、解決をみました。【明つ25-2(1)】

 

1-10『漁村維持法』 明治9年(1876)5月

 江戸後期の経済学者佐藤信淵(のぶひろ)の著書を再版したもので、上下ニ冊からなります。この図は地引(曳)網を写したものです。地引網漁法は、ニ艘の船が一ヶ所から左右に分かれ、中央に設置した大きな嚢(ふくろ)に魚を追い込んでいく漁法で、現在も沖島などで行われています。地引網は大・小に分けられ、大地引網では、鯉やフナなど、小地引網では、モロコなどを漁獲しました。(県史資料5-46)

 

1-11「漁業調査表」 明治17年(1884)

 県租税課が作成したもので、32種類の漁法と漁が行われている地域、漁に使用する道具、採れる魚の種類、収益、漁期など詳細に記されています。このページの「胴引網」とは、さおで水面を叩いて、魚を湖中に沈めた網の中へと追い込む漁法です。引網とも呼ばれ、犬上郡松原村(現彦根市)で行われていました。この漁法で、ワタカやコブナなどを漁獲しました。【明く9-4】

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