滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

3-1「東海道勢田橋改築方諮問案」 明治23 年(1890)

 明治23年度の臨時県会における東海道瀬田橋改築の諮問案です。提出された諮問案は、金8万円で鉄橋に改造するというものでした。この鉄橋案に対して、県会では多くの反対意見が出されました。例えば林田騰九郎は、近江八景のひとつとして風致を保存するという点においても「旧体ノ如キ木橋」であるべきだと主張しています。結果として過半数が反対し、この改修案は否決されました。【明に21(1)】

 

3-2「国庫補助金に関する陳情書」 大正13年(1924)10月23日

 明治27年(1894)、瀬田橋架け替え工事費への国庫による補助が確定せず、工事も先延ばしにされていました。この状況に、明治27年5月には、滋賀県の有志らが、瀬田橋は「千古ノ歴史ニ関係アル国ノ名勝」であるので、「相当ノ補助ヲ与ヘ之ヲ保存」することは「国家適当ノ務ナリ」といった内容の陳情書を提出するなど、積極的に働きかけました。しかし、結局国の補助を受けることは出来ず、明治28年に全額県の負担で架け換えられました。【明に21(41)】

 

3-3「渡船請負契約書」 明治26年(1893)5月23日

 渡船の請負人から知事に出された業務内容に関する契約書です。古来から瀬田橋の架け換え中は渡船によって対岸まで人や荷物を運んでいました。明治28年の架け換えにおいても渡船が用意されます。渡し場は瀬田橋の上流に設けられ、大船2艘・水主(かこ)6人によって運搬がなされました。標燈は終夜点灯され、昼夜問わず何時たりとも出航できるように備えられていました。【明に21(19)】

 

3-4「瀬田橋不用木材払下願」 明治27年(1894)12月3日

 瀬田橋の東側にある橋守神社では、瀬田橋の架け換えの際に、必ずその橋梁と同じ用材で神社の改築を行い、また橋の古材で記念品を作るという慣例がありました。明治27年11月15日、今回の橋の架け換えでも橋梁と同じ用材で改築したいので、用材の払下をしてほしいといった内容の「御不用材払下御願」と、記念品作成のための材料として「古材御払下願」が提出されました。【明に28(6)】

 

3-5「瀬田橋ノ沿革」原稿 大正11年(1922)

 瀬田橋は大正13年に再度架け換えられました。この時の橋は、大正8年施行の道路法に基づき制定された内務省令「道路構造令」の規定に則り、主要部分は鉄骨を用いて「堅牢且耐久力ニ富メル構造」としました。また高欄(手すり)の構造は、橋の歴史上重要なものであるので、従来の通り木造として擬宝珠を取付け、橋面も板張りとしました。【大に19(17)】

 

3-6「浮御堂被害状況」 昭和9年(1934)9月22日

 社寺兵事課による、昭和9年の室戸台風による被害状況の調査です。この台風では寺社や国宝、名勝にも大きな被害が出ました。湖上に建つ浮御堂は倒壊して湖に墜落し、橋台と礎石が残されるのみとなってしまいます。その後、浮御堂は昭和12年に滋賀県技師の西崎辰之助の設計で再建されました。【昭は3(5)】

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