5-1「井伊直憲首唱文」 明治8年(1875)4月5日
明治2年9月、彦根藩知事井伊直憲は、戊辰戦争の戦没者26名の霊を慰めるため、招魂祭を開催します。翌3年には、犬上郡古沢村の井伊神社の敷地に招魂碑を建立し、同4年の廃藩置県後も、井伊家からの寄付(年間米百俵)をもとに、毎年大祭を続けました。その後内務省は、各地の招魂社の地税免除を布達。この支援を心強く感じた直憲は、招魂場の改造を計画し、彦根士族に対して寄付金の協力を仰ぎました。【明す583(69)】

5-2「招魂社新建造願」 明治8年(1875)4月30日
彦根士族の武節貫治(河手主水)から県に提出された古沢村招魂社の新築願書。従来の招魂碑は「浮屠」(ブッダ)の墓石に類似して体裁が悪く、郊外に位置するため、アクセスのよい「便利ノ地」に新たに造営したいと願い出ています。当初内務省は、免税地が増加することから、移転・新築は認めないとの立場でした。しかし武節の数度にわたる再願を経て、翌9年5月18日、犬上郡尾末町での新築が認められることになります。【明す586(81)】

5-3「彦根招魂社神名帳」 (大正期)
彦根招魂社では、戊辰戦争の戦没者26名が祀られました。その内半数近くの15名は、下野国での大鳥圭介軍との戦闘においてでした。小山宿で戦死した青木貞兵衛の名も確認できます。ほとんどが彦根藩士ですが、軍夫として従軍していた文吉(坂田郡春照村出身)のような百姓も含まれていました。その一方、戊辰戦争中の死者であっても、病気が原因の者は含まれなかったようです。年齢は16歳から52歳まで幅があり、平均は27歳でした。【行政資料400】

5-4「旧彦根藩殉難死節姓名履歴」 明治23年(1890)8月20日
天誅組の変で戦死した彦根藩士の履歴書。この時の犬上郡の調査によれば、天誅組の変で2名、禁門の変で9名、第二次長州戦争で23名の彦根藩士が少なくとも亡くなっていたようです。しかしこれらの者たちは、同じ幕末動乱期の戦没者でありながら、いずれも幕府側での参戦のため、長らく招魂社に祀られることはありませんでした。あくまで「官軍」として戦死した事実が、招魂社の祭神となる上で欠かせない要件だったのです。【明す629(3)】

5-5「[写真]官祭招魂社」 (昭和期)
旧藩時代の「維新の功労者」を祀るために発足した彦根招魂社ですが、その後は他の内乱や対外戦争で戦死した者たちも、合祀対象に含まれるようになります。西南戦争の156名、日清戦争の216名、日露戦争の1,568名などです。彼らの出身地は、旧彦根藩領にとどまらず、県全域に及びました。戊辰戦争の戦没者も、膳所藩や西大路藩、水口藩の藩士などが追加され、旧彦根藩のための神社という性格は、次第に弱まっていきました。【昭こ39(6)】

5-6「滋賀県出身者戦病死者合祀祭典趣意書」 大正4年(1915)7月
西郷正之介ら禁門の変の戦没者の合祀は、大正4年10月になってようやく実現します。幕府側とはいえ、京都御所を守った功績が認められたのでしょう。しかし、その他の幕末期の戦没者は、その後も合祀されることはありませんでした。同じ彦根藩士であっても、戦死時期によって、その扱われ方には大きな差が生じたのです。さらに昭和14年(1939)4月、彦根招魂社は滋賀県護国神社と改称し、アジア・太平洋戦争の戦没者も祀られていきます。【明す653(2)】
《参考文献》
- 滋賀県教育会編『近江人物志』(文泉堂、1917年)
- 奈良本辰也監修『幕末維新人名事典』(学芸書林、1978年)
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)

