滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

2-1「河上吉太郎」(1813-1872)

 彦根藩の下級藩士集団「至誠組」の1人。鉄砲足軽の家に生まれ、江川太郎左衛門に砲術を学びました。文久2年4月頃より長野主膳の入牢を要求。8月には家老岡本半介邸に押しかけて、「朝敵にひとしき逆徒」への加担を止めるよう求めました。この訴えを受け岡本は、藩内に動揺をもたらした罪で、長野・宇津木の斬首を命じました。藩政の中心に座った岡本と河上ら至誠組は、旧領回復の実現のために、朝廷や「勤王」諸藩への働きかけを強めていきます。【大え62(28)】

 

2-2「北川徳之丞」(-1878)

 下級藩士集団「至誠組」の1人。幼少より書物を好み、煙草刻みの内職の傍ら、藩儒中川禄郎の下で勉学に励みました。嘉永3年(1850)8月より御普請方役夫手代を務めていましたが、文久2年10月、長州藩士の伊藤俊輔(博文)が彦根の藩情を探りに来た際、応接掛に抜擢されました。翌3年に士分(正規の武士身分)となり、岡本とともに京都周旋に奔走しました。維新後は貢士として政府に出仕し、行政官記録編蒐掛や賞勲局秘書官などを歴任しました。【大え62(30)】

 

2-3「外村省吾」(1821-1877)

 下級藩士集団「至誠組」の1人。鉄砲足軽の養子でしたが、朱子学・陽明学を修め、家塾を開きました。文久2年11月、彦根藩への「不当な」処分に対する幕府への抗議書を岡本半介・河上吉太郎・北川徳之丞と共同執筆。その差出人「岡村吉之丞」は4人の姓名からとったものでした。明治元年徴士となり、新律綱領の制定に関わりました。明治9年8月には、彦根学校(後の彦根東高等学校)の初代校長となっています。【大え62(31)】

2-4「谷鉄臣(渋谷騮太郎)」(1822-1905)

 下級藩士集団「至誠組」のリーダー格。町医の長男として生まれ、長崎でオランダ人医師に学んだ後、彦根初の西洋内科医となりました。文久2年6月、帯刀を許され、同年10月に応接掛に抜擢。伊藤俊輔や谷干城らを、自宅でもてなしました。大政奉還後は、「佐幕」を主張する岡本半介と対立し、藩論を「勤王」へと導きました。明治3年5月には、知事に次ぐ役職である彦根藩大参事まで上り詰め、廃藩後も左院議官や宮内省御用掛などを歴任しています。【大え62(29)】

 

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