1-1「本多康穰膳所城廃城願写」明治期
明治2(1869)年の版籍奉還により藩知事となっていた膳所藩最後の藩主本多康穰は、翌3年4月、新政府に対し膳所城の廃城を願い出ます。その理由として、湖中に突出している城が風波により破損し、修理に莫大な費用が掛かることが挙げられており、城は「無用ノ長物」と見なされています。【行政資料423】

1-2「本多康穰宛膳所城廃城許可太政官布達」明治3年(1870)4月
本多康穰から提出された廃城願いは許可され、翌年には廃藩置県により、膳所藩そのものもなくなりました。不要となった櫓や城門などは領内の各地に移転されます。その遺構としては鞭崎神社表門(旧南大手城門)や篠津神社表門(旧北大手城門)などが挙げられ、いずれも重要文化財に指定されています。【明う149(25)】

1-3「彦根城、当分預け置きの指令」明治6年(1873)5月27日
陸軍省から滋賀県に対し、彦根城の管理を指令した史料です。彦根城は、明治4年(1871)12月に大阪鎮台第二分営が小浜から移されて以来、兵部省や陸軍省の所管に属しており、兵舎として利用されていました。上段の追筆は、指令の心得を諭した初代県令松田道之の直筆と思われます。【明あ79(40)】

1-4「彦根城釣鐘堂絵図」明治6年(1873)5月27日
城内にあった釣鐘堂はかつて報刻の機能を担っていましたが、分営が置かれた後にその機能を失い、人々は難儀していたそうです。そのため滋賀県に釣鐘が引き渡された明治6年に、有志の人たちの申し出により通行鑑札を所持の上で鐘を撞くことが、陸軍省によって許可されました。【明う2(12)】

1-5「旧城郭陳屋等取調出役伺」明治6年(1873)6月3日
明治6年、太政官の指令により廃藩置県で廃城となった県内各所の城郭陣屋が払い下げられることになります。滋賀県では、膳所城、水口城、大溝陣屋、宮川陣屋、西大路陣屋、山上陣屋などが入札に掛けられることになりました。この史料は、そのための調査に関する県官員の伺い書です。【明い192合本1(34)】

1-6「敦賀県より旧小浜城管理に付、伺」 明治6年(1873)6月5日
敦賀県が旧小浜城の所管について大蔵省へ問い合わせた史料です。当時の敦賀県の史料が滋賀県に残されているのは大変意味のあることと言えます。その理由は、敦賀県の管轄下にあった敦賀郡、大飯郡、遠敷郡、三方郡は明治9年から14年まで滋賀県に編入されていたためでした。わずか5年の「滋賀県に海があった時代」の名残といえます。【明あ95合本2(21)】

1-7「長浜町略絵図」明治7年(1874)
長浜は、羽柴秀吉が琵琶湖畔に築いた長浜城を中心とした城下町として発展し、大阪夏の陣で廃城となった後は、建材や石材が彦根城に運ばれたといわれています。この絵図は明治初年の長浜の地が色分けして描かれており、近世においても長浜城の縄張りを基に町が形成されていたことが解ります。【明へ6(135)】


