滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

 第一次世界大戦後のヨーロッパでは、外貨獲得による経済復興を目的として、外客(外国からの旅客)を誘致するための国際観光事業が活発化していました。当時慢性的な不況に直面していた日本も、こうした動向に追従する形で国際観光政策を推進することになります。1930年(昭和5年)には、鉄道省の外局として国際観光局、同省大臣の諮問機関として国際観光委員会がそれぞれ設置され、国内に国際観光リゾートを創出するための調査・実行体制が整えられました。
 その中心的な政策の一つに、外客に対応した宿泊設備を有する国際観光ホテルの建設を地方公共団体に斡旋する取り組みがあります。それまでにも琵琶湖を中心とする景勝地を観光資源とするための環境整備を行ってきた滋賀県がこの取り組みに名乗りを上げ、湖畔の柳が崎に琵琶湖ホテル(現・びわ湖大津館)が建設されました。以下では、ホテル建設事業と地域社会との関係や、経営開始後の実情について窺(うかが)い知ることが出来る史料をご紹介します。

 

5-1「典雅優麗なる湖畔柳ケ崎に豪壮なる国際観光館」1932年(昭和7年)3月2日

 ホテル建設計画は、除野康雄知事の下で1931年に発足しました。この記事では、同年12月に更迭された除野に代わり知事に就任した新庄祐治郎によって、計画の続行とその趣意が語られています。
 琵琶湖畔の景色を「スイスの風光」に例える比喩は、大正初期に滋賀県の観光資源調査に従事した本多静六(東京帝国大学教授)以来のものです。本多は、観光資源活用のための琵琶湖周遊道路計画を提言し、その後正式に着工されます。1931年には工事進展に加え、京津国道の完成も間近に控えていました。「湖畔主要道路の貫通」に言及する新庄の声明からは、道路交通網の整備による観光地としての需要拡大がホテル建設計画の念頭に置かれていたことが確認できます。
 なお、ホテルの名称は二転三転し、1933年末頃から「琵琶湖ホテル」と呼称されるようになったと言われています。(『京都日出新聞』朝刊)

 

5-2陳情書」(大津市料理組合、大津市旅館組合)1933年(昭和8年)11月18日

 伊藤武彦知事に対し提出された陳情書です。外客を主たる対象とするという国際観光ホテルの当初の営業方針が、営利目的のため「内地人遊覧客」、すなわち国内観光客に重きをおくように転換される、との噂を取り上げ、「地方旅館料理店を露骨に圧迫するが如き営業方針」を避けるように求めています。地元の同業者にとって、国家の資金が投じられた国際観光ホテルは、既存の客層を侵食する脅威として見做され得る存在でした。
 1932年に県が実施した調査によれば、1929~31年の間の大津・石山所在3旅館における外国人宿泊数は、年平均で計38.8人とごく僅かでした(「大津地方日本旅館の設備に関する件回報・照会」【昭て10-1(2-3)】)。地元業者にも、国際観光ホテルが外客誘致という「本来の目的」の範囲にとどまってさえいれば「共存共栄の実」を挙げられる、という見立てがあったようです。【昭て10-1(2-3)】

 

5-3「祝賀会場か議場か」1934年(昭和9年)10月29日

 27日に開かれた琵琶湖ホテルの竣工披露宴で、既に転任していた伊藤武彦前知事の挨拶があり、前述の陳情書でも意識された"営利を本旨とせずあくまで外客誘致を目的とする"理念と、それ故経営維持に対する「格別の御後援」を願う旨が述べられました。ホテルの経営は、京阪神財界人の共同出資により設立された株式会社琵琶湖ホテルが担っており、「後援」の依頼も財界に向けてのものと思われます。
 これに対し、来賓の一人であった民政党所属の県会議員・大橋新治郎が野次を飛ばし、「有産者は須(すべか)らく農民のために救済策でも講じるのが当然だ」と反発しました。世界恐慌の煽りを受けた1930年以来、農村では深刻な不況が続いており、農村対策の必要性が議論され続けていました。大橋の発言は、政党内閣制が断絶した中での政党勢力によるパフォーマンスに過ぎないと捉えることもできますが、華々しい国策事業と地域住民の生活との間の乖離が垣間見えます。(『京都日出新聞』朝刊)

 

5-4営業報告書」(株式会社琵琶湖ホテル)1934年(昭和9年)~1937年(昭和12年)

 第1回から第4回の株主総会で配布された営業報告書です。展示している第2回の報告書には、営業を開始した1934年10月27日から翌年5月31日までの営業概況が記載され、外国人「来館」者が延べ465名に及んだことを受け「ホテル建設の主眼たる外客誘致の本旨に副ふを得」たと評価しています。しかし、この数は国内各地に建てられた他の国際観光ホテルの外国人利用者数と比較したとき、必ずしも多いとは言えないものでした(例えば、蒲郡ホテル(愛知県)の1934年12月から翌年11月までの外国人「宿泊」者数は延べ1899名でした)。
 また、その後の営業成績も芳しくなく、第3回、第4回ともに宿泊客数は維持または増加しているとしながらも、業績全体の悪化を報告しています。宿泊客数についても、外国人利用者数は記載されておらず、外客誘致という本来の目的において株主にアピールできるほどの成果は上がっていなかったようです。【昭て15(58)】

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