1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、戦場から離れていた日本は、輸出が急増して未曽有の好景気を迎えました。ところが物価が急上昇したため、賃金がなかなか上がらない庶民は、かえって生活が苦しくなりました。
特に米の値段は、業者の投機的な取引が行われたこともあって高騰し、生活難に拍車がかかりました。その結果、1918年7月から8月にかけて、米騒動と呼ばれる大規模な暴動が全国各地で発生するに至ります。このようななか、滋賀県でも米騒動は発生しましたが、近隣の他府県と比べると規模が小さく、近畿で唯一、治安維持のための軍隊の出動がありませんでした。
ここでは、滋賀県における米騒動の実態と行政の対応について、新聞記事と公文書をとおしてみていきます。
6-1「蒲生在米豊富」1918年(大正7年)8月6日
この記事は、蒲生郡内の米の在庫は豊富なので米不足に悲観する必要はない、という行政当局の見解を伝えています。8月11日に同じ『京都日出新聞』が、8月中に京都市内の米の在庫が尽きる可能性があると危機的に報じているのと対照的です。
実際にどれくらい米の在庫に余裕があったのかは不明ですが、米騒動直前に、米の主要な産地であった滋賀県は、他府県より相対的に在庫が豊富だったことがうかがえます。(『京都日出新聞』)
6-2「長浜騒ぐ」1918年(大正7年)8月14日
7月に富山県で始まった米騒動は全国に波及し、8月10日頃には京都や大阪、神戸で多数の米屋や商店が襲撃される大規模な暴動に発展しました。
滋賀県内も不穏な情勢になります。長浜では12日深夜に突然、警鐘を打ち鳴らし、集まってきた町民に対して、米を買い占めて値段を釣り上げている米屋を襲撃しようと呼びかける者が現れました。この事件は、警察の制止によって群衆が解散したため暴動に発展しませんでしたが、県内各地で同様の事案が散発的に発生し、実際に何軒かの米屋が襲われています。
このような状況をうけて、県は県民に米の買い占めをしないよう厳命し、あわせて安い外国米の大量調達と寄付金の募集によって、市町村が実施する米の廉売を支援しました。県の適切な措置と、もともと在庫が比較的豊富だったことから、滋賀県内ではこれ以上騒動は拡大しませんでした。(『京都日出新聞』)
6-3「郡市長会議資料」1918年(大正7年)8月27日
8月下旬になると、大都市へ供給する米を確保するために、政府の指定を受けた商人が産地で大量の買い付けをはじめました。
本資料は、8月27日に開催された郡市長会議の配布資料です。これによると県は、現時点で県内は平穏だが、商人の買い付けが米価高騰を招き、「民心又も擾乱するの兆」があるとみています。県にとって、いまだ油断できない情勢であったことが分かります。
そこで、県は郡・市に収穫期まで米の在庫がもつか調査するよう指示し、かつ米の県外移出を制限することを決定しました。この措置は9月下旬まで続けられ、結果として騒動が再燃することはありませんでした。【大ふ55(19-4)】
6-4「中産者の窮困」1918年(大正7年)10月8日
10月上旬には新米の流通が遅れたため、再び米価が高騰しました。
本資料からは、台湾米の廉売などの救済策が続けられて、貧困層の生活がどうにか支えられていた一方、中間層は生活難に陥っていた様子が分かります。
この後、半月ほど経つと新米が流通したので、米価は20%ほど下落しました。10月末には各地で米の廉売が終了していきます。このとき、廉売の資金にするために集められていた寄付金が残ったので、県民の「生活を安易ならしむる施設」の財源に充てられることとなりました。以降、米騒動の経験をふまえて、各種社会事業団体の設立や「保導委員」(現在の民生委員の前身)制度の開始など、行政による社会事業が展開していきます。(『京都日出新聞』)