明治期に存在した滋賀県尋常中学校(現在の県立彦根東高等学校)において、明治30年(1897年)1月に教員が一斉辞任するという事件が発生しました。その背景には、2年間で2倍以上という入学者数の急増に伴う中学校の施設増築問題がありました。明治29年12月に県は施設建設予算を県会に提出しましたが、県会は前年発生した水害復旧を優先させ、中学校予算を原案から減額しました。これに不満を持った教員たちは、学校の窮状を親書にしたため、県知事と県会議長に提出しました。しかし、県会は親書の文言を理由に態度を硬化させ、関与した教員の辞職を求めました。これに対して、当時の今井恒郎校長以下教員は一斉に辞表を提出しました。
日出新聞と当館所蔵の資料から、当時の県の対応と中学校所在地の彦根町有力者の動向をたどります。
6-1「中学校問題」 明治30年(1897年)1月13日
明治30年1月2日に滋賀県尋常中学校校長の今井恒郎以下教員が辞表を提出しました。これに対し、県は書記官を派遣し、辞職を思いとどまるよう説得しました。中学校の所在地であり、出身在学生も多い彦根町の有力者もこの問題を憂慮し、7日夜に派遣された書記官と協議しました。これらの有力者のうち、林好本は旧彦根藩士で元福岡県警部長、第3代彦根町長を務め、事件当時は県会議員でした。浅見竹太郎は当時県会議員で、日露戦後に衆議院議員を務めた人物で、鯰江与惣次郎は弁護士で第5代彦根町長を務めました。(『日出新聞』)
6-2「予餞会」 明治30年(1897年)1月13日
日出新聞は13日付の記事において、9日に今井校長ら教職員・生徒以下300名あまりが予餞会と呼ばれる送別会を開催したことを報じました。教員・生徒は、まず校内の空き地に集まり、水盃をかわるがわる交換しました。その後、講堂で教員・生徒が訣別の演説をし、校長・教員は彦根招魂社の脇から船に乗り、生徒は徒歩で大洞(松原村)に集まりました。そこで宴会となり、剣舞が演じられました。最後に生徒自ら作詞した歌「血の涙」を斉唱し、散会となったようです。(『日出新聞』)
6-3「中学校の義に付上申書」 明治30年(1897年)1月31日
県は、中学校教員の一斉辞職をきっかけに地元彦根町において、知事に対する不満が高まっていることを内務省と文部省に報告しました。本報告書によれば、彦根町民は中学校設置の際に寄付しており、在校生にも彦根出身者が多いため、中学校問題に強い関心を抱いていたようです。26日に在校生有志や有力者が辞職問題に関する会合を開いた際、県会議員の浅見竹太郎は今井校長を評価する一方、知事が中学校予算の原案復活や校長留任に向けて十分に動いておらず、教育に消極的であると批判しました。【明し41(37-4)】
6-4「尋常中学校長任用の義に付内申」 明治30年(1897年)1月24日
今井校長以下教員が辞職したことにより、中学校は休校となっていました。中学校の正常化を図るため、県は後継校長の選任手続きを進めました。県は、福井県尋常中学校校長であった大岩貫一郎を候補者に選び、21日に文部省と福井県との間で協議を行いました。その後、県は本資料で文部省に対して、速やかに大岩の校長就任に関係する手続きを行うことを求めています。大岩は2月4日に校長に就任しましたが、結局混乱した中学校を収拾できず、わずか6カ月ほどで学校を去ることになりました。【明え97(25-8)】