滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

 滋賀県はカナダ移民をはじめとして数多くの移民を輩出したことで知られ、いまなお子孫の方々が当地で暮らしています。
 日本とハワイ両政府の取り決めによるハワイ官約移民は、その後、北米大陸へと渡航先を拡大していく本県からの移民の歴史において、重要な意味をもっています。移民の渡航が始まる明治18年(1885年)には、滋賀県を本籍とする79名がハワイへ渡りました。そのうち、水害に遭った湖東地域の人びとが半数以上を占めています。彼/彼女らは出稼ぎのために海を渡り、故郷に送金しました。
 本県からのハワイ移民の動向を示す公文書は多くありません。今回、明治17年から明治20年までの『中外電報』の調査によって、従来の資料の不足を補うかたちで官約移民最初期の実態をうかがい知ることができるようになりました。

 

3-1布哇(はわい)国渡航契約について各郡長への訓令案 明治20年(1887年)10月19日

 明治18年に始まるハワイ官約移民は、明治27年まで26回に及び、約3万人の日本人がハワイへ渡りました。この官約移民は、失業者が増加していた日本側には労働場所を、感染症の流行により人口が激減していたハワイ側には労働力を提供しました。初期の官約移民は、個人がR・W・アーウィン(駐日ハワイ国代理公使兼横浜駐在総領事)との間で約定書を取り交わし、それに基づいてハワイ政府が移民の諸条件を保証するという形式がとられました。本資料は、契約の改訂に関する外務省から県への通達を、各郡宛に編集した訓令案です。【明い200-2(15)】

 

3-2「布哇(はわい)出稼」 明治18年(1885年)4月30日

 当時の新聞は、ハワイやハワイ移民に関する情報を読者に提供しました。たとえば、現地の風土、人口、政情、出稼人の労働内容(製糖所などにおける)・生活状況について報じられました。第一回渡航の前年には、出稼ぎによって得られる利益を説き、渡航を促す記事もみられます。
 初回の募集には、定員をはるかに超える応募が全国からあり、とても全員は渡航できませんでした。そのため、出願が制限され、滋賀県では郡ごとに出願者検査が実施されることになりました。
 この記事には渡航出願者数および出稼人の選抜例が示されています。後日の記事には定員90名のうち合格者はおよそ70名であったと報じられました。(『中外電報』)

 

3-3「布哇(はわい)音信」 明治19年(1886年)4月30日

 初期の移民は永年移住というよりも、出稼ぎによって得た資金を家族に送金することを目的とし、いずれは故郷に戻る性質のものでした。明治19年2月13日付の記事には、半年の労働を終えた本県からの移民74人が、計651ドルを各自の故郷へ向けて送金したと記されています。ハワイに渡った人びとは過酷な労働、気候条件や言語の問題に直面しました。
 本資料には、滋賀郡中浜村(現・大津市)の人が親族へ向けて発送したという書信の内容が紹介されています。そのなかには、開墾した土地に日本各種の雑穀を播種した様子、あまりに過酷な労働に、幾度も故国へ帰りたいという念が起こったことなどが認めてあったようです。(『中外電報』)

 

3-4「明治39年滋賀県海外渡航者記録 明治40年(1907年)

 この資料は、県知事から内務大臣宛に作成された、明治39年分の県内の景況報告書です。海外渡航者については、ハワイへ508名、カナダへ257名が本県から渡ったと記されています。
 ハワイ官約移民は、1894年にハワイ共和国が設立したという政治情勢や、日本の国際情勢の変化等により終焉をむかえます。その後は、私設移民会社により移民事業が行われました。本県からの移民の渡航先は、1890年代にはすでにアメリカや北米地域へと移行していきました。
 1900年、ハワイが準州化しアメリカの法律が適用されると、ハワイからアメリカ本土への転航者が増加します。本資料の508名もまた、全員がハワイにとどまったわけではなく、ハワイを経由してアメリカ大陸へと活動を広げていった可能性もあります。【明こ11(4)】

 

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