2-1「県医師会東浅井郡支部臨時救療所設置規程」明治42年(1909年)8月27日
明治42年(1909年)8月14日、滋賀県北東部の姉川を震源とする大地震が発生します。被害状況は死者35名、重軽傷者643名、全壊した民家は972棟におよびました。東浅井郡役所は日本赤十字社滋賀支部に依頼し、治療所を設置しました。その後救護は滋賀県医師会に引き継がれ、嘱託医員9名が無報酬で治療にあたりました。【明ふ158-3(5)】
2-2「震災状況調(坂田郡役所「震災記録」の提出)」 明治43年(1910年)8月31日
この資料は各地の被害を詳細に記録したもので、善行を行った人物の記録も掲載されています。たとえば、ある寺院の住職は、自身が創立した看護婦(看護師)養成所の看護婦3名を派遣し、自らも義捐金を集め、雑誌200冊を児童に贈るなど奔走したようです。春照村(現・米原市)の青年は、落石に当たり重傷の男性を戸板に寝かせ医師の自宅へ運びました。【明そ6-2(3)】
2-3「小屋掛材料給与の義御願」 明治42年(1909年)9月9日
姉川地震により自宅が全壊してしまった東浅井郡小谷村の人々から、再建のための材料の提供を願い、同郡へ出された文書です。平時から貧しい生活であること、親族に頼れないなどの切羽詰まった状況が述べられています。小谷村役場では戸主の年齢や職業、坪数を調査した上で、屋根や土間用の杉、柱用の丸太など、どの材料が必要か調べ、この文書とともに郡役所に提出しました。【明ふ160-1(1)】
2-4「救護所の看護婦たち(『滋賀県震災実景写真帖』所収)」 明治43年(1910年)
日本赤十字社滋賀支部の看護婦(看護師)たちは、テントを張った救護所において手当を行いました。打撲傷の患者数が最も多く、次いで挫創と消化器の病気の患者が多かったようです。滋賀県医師会東浅井支部によれば、傷病者は減っていったが秋を迎えて気温が下がる中で、被災の疲れによる伝染病が流行したようです。【国立国会図書館デジタルコレクション】