滋賀県の障がい児施設・近江学園は、「この子らを世の光に」という方針を掲げ、太平洋戦争敗戦直後に創設されました。近江学園は、戦時下に誕生した二つの学校の流れを汲んでいます。その一つが三津浜学園です。
三津浜学園は、1943年(昭和18年)に、出征軍人の遺家族の子どもで、虚弱体質児童の教育・鍛錬施設として作られました。戦時下では、国家の役に立つことが強く求められました。体の弱い子どもたちも、三津浜学園の教育や訓練により、立派な兵士になることが期待され、そのことが学園の存在意義ともなったのです。
「虚弱」や「障害」など、国家の要求に適さない人々を圧迫する社会の中で、三津浜学園とその子どもたちには、どのような「期待」や「励まし」がかけられたのでしょうか。そして、子どもや教師たちは、どのような学園生活を送っていたのでしょうか。当時の新聞記事や公文書から、見てみたいと思います。
6-1「言上書」1943年(昭和18年)
1943年4月2日、三津浜学園は開園しました。発足・運営の中心は糸賀一雄や池田太郎等、のちの近江学園創立者たちでしたが、経営は恩賜財団軍人援護会であり、助成金も受けていました。1943年11月、梨本宮妃が銃後婦人の活動状況視察のため、滋賀県を行啓し、三津浜学園も訪れました。この「言上書」は、園長である藤堂参伍が学園の概要を記したものです。
三津浜学園は、児童・教師ともに学園に住み込み、共同生活を送ることになっていました。この言上書によると、「一日中の全時間を家庭的な和(なごやか)さの中に教育に充て」、「児童に衣食住の全面に亘る生活訓練を実施」するとあります。教科課程の他に勤労作業もあり、身体的鍛錬として、蔬菜栽培や養鶏、薪割り等も行っていたようです。また、子どもたち自身に「身体的状況を自覚」させるため、週一回体重測定を行い、グラフに記入していました。藤堂はその成果として、開園以来6か月で平均1.2キロの体重増加が見られたと述べています。【昭か31(17)】

6-2「三津浜学園見取略図」1943年(昭和18年)
学園の見取り図です。この建物は、元々アメリカ人宣教師の所有でしたが、日米開戦後に接収され、三津浜学園の校舎として使用されました。この図からは、教室や食堂、医務室、会議室のほかに、子どもたちの自室となる児童室、職員の部屋と思われる保健婦室や栄養士室などが確認できます。
先に触れた「言上書」を見ると、学園の児童は国民学校初等科5年生の23人、職員は医師である園長、国民学校訓導の教護員、保母、保健婦(炊事婦兼任)の4人だったことがわかります。入学の費用については、軍事扶助や生活援護を受ける家庭の児童は無料、その他は家計の状況に応じて費用を徴収すると、別の史料に記されています。【昭か29(7-3)】

6-3「湖畔に鍛ふ 勇士の子ら③ 楽しい屋外授業 鍛えつゝいそしむ勉学」1943年(昭和18年)5月5日
三津浜学園開園の翌月、京都新聞では、「湖畔に鍛ふ 勇士の子ら」という連載記事となって三津浜学園が紹介されました。全9回に亘る連載の中で、朝の掃除や食事といった生活面、授業・学習や身体測定等の学校教育的側面など、学園の日々の風景を報じています。連載記事から、皇居遥拝や軍事教練など、戦時色を色濃く反映した日課があったこともわかります。
展示の記事はシリーズの第3回目です。学園の特徴的な授業形態として、屋外授業の様子が紹介されています。「虚弱」と言われた学園の子どもたちを、生き生きと肯定的に描くとともに、「健康を増進」、「お父さんの仇を討つ」という話題が随所に表れます。(『京都新聞』朝刊)

6-4「湖畔に鍛ふ 勇士の子ら⑥ 朝夕に誦ず四則 念願は立派な兵隊に」1943年(昭和18年)5月8日
連載記事「湖畔に鍛ふ 勇士の子ら」の第6回目です。ここでは、学園の子どもが母に宛てた手紙が紹介されています。三津浜学園に入学すると、親元を離れ、学園での共同生活となるため、当初は寂しかったこと、しかし教師の池田先生に励まされ、元気になってきたこと、そして父や兄が戦死したり従軍したりしているもの同士、友だちとは「戦友の気持ち」で固い友情で結ばれていること等を綴っています。
「虚弱の不面目」を捨てようと、学園の子どもたちは「健民健兵それのみが我等の最後の目標」として「一人残らず必ずもとの国民学校に戻れるやうな健康体」になることを目指し、学園生活を送っていました。(『京都新聞』朝刊)

