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 アユは、現在の琵琶湖漁業の漁獲量中、4~5割を占める重要な魚です。琵琶湖のアユは、多くが琵琶湖のなかで一生を過ごし、成魚になってもあまり大きくならないことから小鮎と呼ばれています。
 小鮎は、明治時代までは、川を遡上して大きく育つアユとは異なる琵琶湖の固有種だと考えられていました。しかし、明治40年代に理学博士・石川千代松や滋賀県水産試験場が研究を行い、育つ環境によって他のアユと同じように大きく成長することが判明します。
 この研究により、琵琶湖産小鮎は、河川放流用・養殖用に採取し一定期間育て出荷する稚アユ(アユ苗)として注目され、県内外に出荷されました。そこで、生きたアユを大量に運搬する活魚輸送が必要となり、様々な実験が行われます。ここでは、大正・昭和期を通じて滋賀県における水産業のなかで重要な位置を占める小鮎配給事業について、とくに輸送に着目してみていきます。

 

4-1「各地へ移殖の琵琶湖産小鮎」1926年(大正15年)5月29日

 一般的に、アユは、河川の下流域で産卵・孵化して海へ流下し、冬は海域で過ごして、暖かくなると海から遡上して上流で夏を過ごします。しかし、大正時代に電源開発がすすみ、水力発電所が全国各地に建設されると、発電設備によってアユが遡上できず、繁殖が困難になるという問題が全国的に発生しました。このため、琵琶湖産小鮎が稚アユに適することが判明すると、河川移殖用のアユ苗として需要が高まったのです。
 本資料からは、滋賀県水産試験場が小鮎の輸送方法を研究していることがわかります。1925年以降、県水産試験場では計4回の長距離汽車輸送試験を実施し、輸送方法の改善に努めます。さらに、1931年(昭和6年)には日本初の活魚貨車が設計され、小鮎の輸送に使用されました。この活魚貨車では、圧縮酸素や水槽の工夫により、小鮎の生存率99%以上と輸送状況が大きく改善します。当時、小鮎輸送の開発は、日本における活魚輸送の最先端を担うものであったといえます。(『京都日出新聞』朝刊)

 

4-2「体の弱い小鮎を通じて 日米が固い握手」1928年(昭和3年)5月9日

 全国から小鮎移殖の需要が高まる一方で、農林省水産局はアメリカへの船舶輸送による琵琶湖産小鮎移殖を試みます。これは、アメリカの魚類学者ジョーダンが熱望したことによるものでした。
 本資料には、過去のアメリカへの小鮎輸送は失敗していること、設備は石川千代松博士が考案し、米原-横浜間の鉄道はタンクをかき回して酸素を供給し、横浜からの船中は圧縮酸素を供給したことが記されています。小鮎の太平洋横断について学者は「不可能」と述べていたようで(同年4月25日付『京都日出新聞』朝刊)、輸送費のみでも約6千円を投じた、水産局にとっての一大プロジェクトでした。このときは小鮎1万尾と金魚200尾を輸送し、4月24日に米原を出て26日に横浜港を出港、シアトルに5月6日に到着します。結果は、五割ほどの小鮎が無事に到着し好成績だったようです。(『京都日出新聞』夕刊)

 

4-3小鮎配給事業に関する件」1929年(昭和4年)9月

 小鮎の移殖や輸送成績が増加するなかで、1930年、滋賀県は小鮎の配給を県営の事業とします。それまで個人や組合が行っていた配給は、県水産試験場が県内外の需要者から注文を受け付け、県内の配給業者に出荷を指示する体制となり、配給業者も県知事による認可が必要となりました。
 本資料は、県知事の引継のために作成されたものです。県営事業化によって小鮎の品質改善と統一、そして円滑な配給を図ることは、滋賀県のためだけではなく全国の河川において「頗(すこぶ)る緊要」である、と配給事業の重要性が述べられています。1930年に開始した県の小鮎配給事業は、10年目(昭和14年度)には申込数の総数が1600万匹を超え、昭和期を通して滋賀県の水産行政のなかでも重要な位置を占めました。県が統括する配給体制は、戦後、1963年に滋賀県鮎苗漁業協同組合連合会に委託するようになるまで継続します。【昭お2-1(6-7)】

 

4-4「琵琶湖の小鮎運搬機 中瀬の湖岸に墜落」1931年(昭和6年)4月26日

 小鮎配給事業が滋賀県にとって大事な産業となるなかで、滋賀県水産試験場では航空機による運搬も試みています。この試験が行われた背景には、当時、逓信省が航空事業発展を目的とする助成を行っていたことも一因として考えられます。
 航空機は琵琶湖―東京間を3万尾のアユを載せ、東浅井郡南浜(現・長浜市)から離水しました。本資料からは「水産航空界の画期的壮挙」と期待されていたことがわかります。しかしながら、このときは乱気流の影響を受け約10分後に墜落し、乗員3人が重症を負ってしまいました。(『京都日出新聞』夕刊)

 

4-5「密雲を衝いて――木の浜湖岸を離水」1931年(昭和6年)4月30日

 小鮎の空輸失敗に対し、滋賀県当局のなかには延期する意見もあったようですが、墜落の数日後には1万尾を載せて再度決行されました。この運搬は無事に成功し、7割ほどが満足な状態で東京の大森に到着し、奥多摩に放流されます(同年4月30日付『京都日出新聞』朝刊)。
 同年の輸送方法は自動車327万6500尾、汽車221万300尾、飛行機9万1000尾で、滋賀県としては、今後は空輸の輸送に力を注ぐ方針だったようです(同年6月2日付『京都日出新聞』朝刊)。実際の小鮎の輸送は自動車や列車が中心だったと考えられますが、このような挑戦からは、輸送の改善という最重要課題に対する当時の水産関係者の情熱をみることができます。(『京都日出新聞』夕刊)

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