滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

 1928年(昭和3年)11月、昭和天皇の即位儀礼である、即位礼と大嘗祭(だいじょうさい)(ふたつ合わせて「大礼」)が京都で行われました。即位礼は新しく即位した天皇が神々に奉告する儀式で、大嘗祭は即位後に新天皇が米を神々に供え、共食するという儀式です。
 その大嘗祭で用いられる米を収穫して奉納する2か所の水田をそれぞれ悠紀斎田(ゆきさいでん)・主基斎田(すきさいでん)と呼び、前者は京都以東以南、後者は京都以西以北から選ばれます。1928年の大嘗祭では、滋賀県が悠紀斎田を出す地方、福岡県が主基斎田を出す地方に選ばれました。悠紀斎田を出す地方に選ばれた滋賀県が、大嘗祭で用いられる米を収穫するまでの様子を公文書と新聞記事から紹介します。

 

2-1復命書」1928年(昭和3年)3月6日

 2月5日、悠紀斎田を出す地方・主基斎田を出す地方がそれぞれ滋賀と福岡に決まりました。選ばれた滋賀県は、まず悠紀斎田を選定します。斎田の選定には、水田の耕作面積や風水害のおそれがないことなどのほか、太田主(斎田の所有者)候補者の人物や家庭状況、水田が所在する町村の状況などが考慮され、最終候補地には知事自らが視察に赴いています。資料は彦根測候所長による調査復命書で、等温線図を添付して、候補地のうち野洲郡三上村(現・野洲市三上)が最も高温であるため最適であるとしています。このような関係部署による調査を経て、悠紀斎田は三上村の粂川春治の所有田に決定しました。【昭た452(11)】

 

2-2「緩やかな歌詞と田植踊りに合せ 厳粛裡にお田植を終る」1928年(昭和3年)6月2日

 6月1日から3日にかけて御田植祭が行われました。この初日の様子を『京都日出新聞』は大きく報じています。これによると、多賀神社宮司が斎主となって式を進め、児童文学者・巌谷小波の作詞による悠紀斎田御田植歌とお田植踊とにあわせて苗の植え付けが行われました。式では、八日市飛行連隊や民間飛行機による奉祝飛行も行われ、近隣の府県知事など1000名あまりの参列者、10万名近くの拝観者が訪れて盛況であったといいます。これを報じた京都日出新聞社は事前に紙面上で参加者を募集し、拝観団を組織して参観しました。(『京都日出新聞』夕刊)

 

2-3大礼記念事業調」1928年(昭和3年)8月6日

 昭和天皇の大礼が行われるにあたり、各団体がこぞって記念事業を行いました。滋賀県は、各町村および町村内の団体、県立学校で計画された記念事業を取りまとめ、内務省に報告しています。資料は内務省への報告書の控えで、これによると、天皇の肖像画と教育勅語とを収める奉安庫の建設(滋賀郡伊香立村など)、戦死者を顕彰する忠魂碑の建設(在郷軍人会草津町分会など)といった国家への忠誠心を高めようとする事業のほか、組合伝染病院の設置(栗太郡大宝村・物部村・葉山村・常盤村4か村合同)、図書館の建設(甲賀郡水口町など)、稲(米)作増収品評会(大原村農会など)、貯金事業(宇津呂村青年団など)などの産業振興や社会事業が計画されました。【昭か79-2(3)】

 

2-4「五十風十雨(ごふうじゅうう)恙(つつ)がなく けふ抜穂の儀を終る」1928年(昭和3年)9月17日

 9月16日に、斎田で稔った稲の刈り入れを開始する儀式である抜穂式が行われました。記事によれば、東京から派遣された抜穂使が祝詞をあげた後、太田主がお祓いをした農具で稲の刈り入れを行いました。次いで、その稲を知事と抜穂使が点検し、その後で太田主が奉納しました。大勢の拝観者に加え、八日市飛行隊による奉祝飛行もあり盛況であったといいます。収穫された斎田の稲は一部を玄米としたほかは精米されて京都に送られ、11月14日から15日にかけて挙行される大嘗祭で用いられました。(『京都日出新聞』夕刊)

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