1925年(大正14)3月、選挙法が改正されて男子普通選挙制が導入されました。これにより次の総選挙から有権者数が一挙に4倍に増加することになり、国民の政治参加が一層拡大しました。そのため、当時の主要な政党である立憲政友会(以下、政友会)や憲政会は、地域の有力者だけでなく、より民衆を意識した政策を打ち出して、支持基盤の拡大を目指すようになります。
また1925年5月には、立憲国民党(以下、国民党)の系譜をひく政党である革新倶楽部が分裂・解党しました。滋賀県では、反政友会の立場をとる国民党系の勢力が強く、明治期には県政に大きな影響力を有していました。革新倶楽部の分裂の後、県内の旧国民党系の勢力は、各々が当時の主要政党である政友会、憲政会に合流することになります。
この展示では、滋賀県において、政友会と憲政会という二大政党が、国民の政治参加の拡大をどのように受けとめて、互いに競争しながら支持拡大を図っていったのか、普通選挙制の導入直前からその過程を紹介します。
1-1「政友会滋賀支部 選挙改正委員会」1924年(大正13年)8月19日
1924年5月、総選挙の結果をうけて、貴族院を勢力基盤とする清浦奎吾内閣は退陣し、憲政会・政友会・革新倶楽部による連立政権である加藤高明内閣が成立しました。この加藤内閣の成立によって、普通選挙制の実現に向けた動きが本格化し、各政党で選挙法改正に向けた調査が行われました。
展示資料は、政友会滋賀県支部で行われた選挙法改正に関する調査委員会の模様を報じた記事です。注目されるのは、滋賀県支部では、25歳以上の「世帯主」の「男女」に選挙権を付与する意見が採用されている点です。納税額や性別による制限を設けない一方で、世帯の生計を維持する能力の有無を、選挙権を制限する基準として新たに導入する発想があったことがうかがえます。
滋賀県支部の意見が政友会全体でどのように受けとめられたかは分かりませんが、結果的に、1925年に成立した男子普通選挙制度では、女性と公的な支援を受ける生活困窮者の参政権が否定されることになりました。(『京都日出新聞』滋賀付録)

1-2「憲政会幹部会で非政友大挙憲政へ」1925年(大正14年)11月5日
政友会と憲政会は次第に税制などの政策をめぐって対立するようになり、1925年7月、政友会は政権を離脱して、加藤内閣は憲政会単独内閣となりました。
展示資料は、11月2日に彦根で開催された憲政会滋賀県支部の幹部会の様子を報じた記事です。幹部会では、コメの等級を検査する近江米同業組合の県営化を目指すことが決められました。これは生産者の検査費用負担の軽減を図る政策であると同時に、政友会の支持基盤になっていた組合を切り崩そうとした動きです。
また、「民衆の信」を失わないために、非政友会系の勢力が結集して、「一定の主義・政策」を打ち出していく必要が主張されている点が注目されます。この主張に応える形で、旧国民党系の人々が中心となって結成していた「県政革新同志会」のメンバーである4人の県会議員(田中養達、橋本二郎、小林郁、向坂政平)が憲政会に入党しました。(『京都日出新聞』滋賀付録)

1-3「青年同盟会の除名事件真相」1925年(大正14年)12月22日
一方、旧国民党系の政治家のなかには、政友会に入党する人もいました。その一人、野洲郡の清水銀蔵は、かつて国民党、革新倶楽部に所属して、総選挙に2回立候補しましたが、いずれも政友会の井上敬之助に敗れていました。ところが、革新倶楽部が解党すると、犬養毅と行動を共にして政友会に入党します。
この動きに反発したのが、それまで清水の選挙運動を支援していた青年たちです。展示資料は、野洲郡と栗太郡の青年が組織する「野栗青年同盟会」が、今後は清水を支援しないこととし、清水と通じている会員を除名して、憲政会支持を決議したことを報じる新聞記事です。当時は全国各地で、このような青年たちによる政治団体が結成され、政治家の選挙運動の担い手になっていました。
ただし、野洲郡と栗太郡の政友会の勢力基盤は強固だったようです。清水はこの後、1927年に死去した井上敬之助の地盤を引き継いで衆議院議員に当選し、政友会滋賀県支部長にも就任しました。(『京都日出新聞』滋賀付録)

1-4「憲政派勝つ」1926年(大正15年)4月28日
政友会所属の藤沢万九郎衆議院議員が死去したことをうけて、1926年4月27日に滋賀6区(坂田・東浅井・伊香郡)の補欠選挙が実施されました。この補欠選挙では、憲政会から県会議員の田中養達が立候補し、政友会の吉村平造を破って当選しました。
展示資料は、田中の当選を報じる新聞記事です。記事では、政友会の敗因として蚕業試験場の移転問題が指摘されています。この問題は、県が東浅井郡大郷村にあった蚕業試験場を坂田郡長浜町に移転しようとしたところ、県会において政友会が反対し、移転改築予算案を否決した事件のことです。結果として、坂田郡政友倶楽部が解散するなど、坂田郡では政友会の勢力が後退することになりました。このことは補欠選挙にも影響したとみられ、得票数をみると坂田郡で田中が吉村を大きくリードしたことが分かります。
この後、滋賀県では、二大政党である政友会と憲政会(後に立憲民政党)の対立が激化していくことになります。(『京都日出新聞』朝刊)

