1912年(大正元年)8月15日、現在の京阪電気鉄道京津線にあたる京津電気軌道(京津電車)が開業します。この路線の敷設が許可されるにあたり、京津電気鉄道(京津電鉄)、京都電気鉄道(京都電鉄:後に京都市電に吸収)、近畿電気鉄道(近畿電鉄)が競願していたため、内務省の勧告によって三者が合同出願し、許可されるに至ったことが知られています。この三者が合同に至るまでを、大津―京都間の電鉄敷設計画のはじまりまでさかのぼって、当館所蔵の公文書と新聞記事とからたどります。
4-1「京津電気鉄道株式会社・京都電気鉄道株式会社契約書」1894年(明治27年)3月15日(写し)
1894年、大津商業会議所関係者により、京津電鉄設立が発起されます。しかし、同時期に京都電鉄も京都から大津への延伸を計画しており、競願問題が生じました。そのため、京津電鉄が滋賀県側の線路について、京都電鉄が京都側内の線路について、それぞれ建設・所有し、相互乗入れを行う契約を両者は結びます。しかし内務省は、同一路線に二営業者という形態を問題視し、出願を却下します。この後も、大津―京都間の電鉄敷設が出願されますが、どれも実現をみませんでした。【明に26(48)】
4-2「京津電鉄発起者の合同に就て」1906年(明治39年)4月8日
1906年3月19日、大津商業会議所関係者や衆議院議員谷沢龍蔵らが、再び京津電鉄の設立を出願します。しかし、同時期に京都電鉄も再び大津への延伸を出願し、またも競願問題が起こりました。
記事は、京都電鉄が「大津派」(京津電鉄)へ合同出願の提案をしたこと、京津電鉄が拒否する意向であることを報じています。京津電鉄は、提案を拒否する理由として、レール幅の違いから京都電鉄の線路と連絡できないことを挙げていました。(『京都日出新聞』)
4-3「京津電鉄一部合同成る」1906年(明治39年)9月24日
競願問題は、貴族院議員由利公正らが設立を出願した近畿電鉄も加わり、三者の争いとなりました。この事態に対し、内務省は三者に合同出願を勧告します。
まず京津電鉄と近畿電鉄の合同が成立し、京津電鉄の発起人に近畿電鉄関係者が加わりました。本資料はそれを伝える記事です。しかし京都電鉄は、そもそも既存の会社としての申請であったため、京津電鉄の発起人に加わることは難しいようだと報じられています。(『京都日出新聞』)
4-4「特許状」1907年(明治40年)1月24日(写し)
結局、京都電鉄は、同社重役が個人として京津電鉄の発起人に加わることを決定します。三者が合流し、京津電鉄として出願した結果、1907年1月24日付で内務省から認可されました。本資料は、この時に与えられた特許状の写しで、京都電鉄から取締役である大沢善助・古川為三郎が京津電鉄の発起人に加わったことが確認できます。そして一時、日露戦争後の不況の影響で計画が中断しますが、大正元年に京津電車は開業を迎えました。【明と79(33)】