今から120年ほど前の1904年(明治37年)、日露戦争が勃発しました。ヨーロッパの大国、ロシア帝国を相手に、国を挙げて戦われたこの戦争では、滋賀県もさまざまなかたちで関与することとなりました。ここでは、『京都日出新聞』や県立公文書館に残された公文書から、滋賀県と日露戦争との関わりをみていきたいと思います。
1-1「婦人の粧飾節約」1904年(明治37年)4月6日
日露戦争中、さまざまなかたちで一般国民も戦争に協力しました。そのひとつが戦時公債の購入や戦費献納といった活動です。犬上郡豊郷村では、青年会の発起により皇順諒(東押立村浄願寺の住職)の演説会が開催され、演説に感動した女性たちが、化粧・衣服といった粧飾費用の節減により23円余りを軍の恤兵部に献納したこと、そのなかには8歳の少女が自身の貯蓄から捻出した2円が含まれていることが報道されています。また『京都日出新聞』紙上では、戦費調達のために募集された戦時公債の滋賀県内での応募額も連日報じられています。(『京都日出新聞』)
1-2「金州城南門の勇士」1904年(明治37年)6月19日
大津市に駐屯していた歩兵第九連隊は、第四師団に属して遼東半島上陸後、南山の戦い(1904年5月)から奉天会戦(1905年3月)まで、主要な会戦に参加しました。『京都日出新聞』紙上では、戦闘や戦死者に関する記事が連日掲載されています。6月19日付の記事では、南山の戦いでの金州城攻撃に際して、城門を開こうとして戦傷した滋賀県出身の兵士が、横浜に暮らす叔父に宛てて記した手紙を掲載し、戦闘の様子を伝えています。(『京都日出新聞』)
1-3「俘虜取締巡査勤務規程」1905年(明治38年)4月13日
日露戦争では、7万人以上のロシア軍捕虜(俘虜)が日本本土に移送、収容されました。大津市にも園城寺山内善法院をはじめとして、26ヵ所もの収容所が設けられます。捕虜たちは高観音(近松寺)周辺を散歩したり、県庁や師範学校を参観したりと、収容施設を出て活動することもあり、しばしば新聞でも報道されました。
この資料は、捕虜たちの「保護警戒等」に当たる巡査の勤務規程で、収容所付近の見回りや立ち番、外出時の尾行にあたることなどが定められています。【明い215-2(63)】
1-4「滋賀県訓令第二十九号」1906年(明治39年)10月6日
1905年9月、ポーツマス条約の調印により、日露戦争は終結しました。その翌年、滋賀県知事は各市町村長に対して各地域における恤兵(物品を戦地の兵士に送り慰問すること)や青年団体の活動、記念事業などの調査、とりまとめを指示しました。その際に取り上げるべき事項のひとつに、「出征者ニ対スル状況通信新聞雑誌学校成績品等ノ寄贈」が挙げられています。実際に各町村の「戦時事績」には、新聞を送ったとの記述もみられ、銃後の新聞が前線の兵士にも読まれていたことがわかります。【明い24-1(27)】