大日本帝国憲法の発布を経て立憲国家として歩み始めた日本では、国会開設が実現し、明治23年(1890年)7月1日に第1回の衆議院議員選挙が実施されました。有権者は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子(全人口の約1%)に限られましたが、それまで一部の権力者に国の政治が独占されていた状況に対して、人びとの政治参加が進展する糸口となりました。ここでは、滋賀県においてこの初めての総選挙がどのように行われたかを見ていきます。
4-1「滋賀県下の党派」 明治22年(1889年)8月2日
第1回総選挙が迫るなか、滋賀県でもいくつかの政治結社が組織されました。なかでも近江政友会と近江同致会は、県内全域から会員を集めた有力な団体でした。いずれも中央の政党とは距離を取っていましたが、前者に比べて後者は政治的主張が明確でなく、県内有力者らの寄り合い所帯という性格が強かったようです。(『中外電報』)
4-2「衆議院議員選挙事務取扱規則」 明治23年(1890年)2月15日
当時と現在とで大きく異なる点の一つは、記名投票であったことです。衆議院議員選挙法では、「被選人」(議員になってほしい人)の名前だけでなく、「選挙人」(投票する本人)の氏名・住所を明記し、捺印することが規定されました。これは当時、世界的にも記名投票制を採用する国が多かったことにもよるようです。ただし、開票時には選挙委員が投票者名とその投票先を朗読することとされたため、有権者の投票行動は様々な人間関係に拘束されました。記名投票制は明治33年(1900年)まで続きました。【明き33-2(3)】
4-3「滋賀県の政況」 明治23年(1890年)3月1日
総選挙が近づくと、活発な競争が起きました。第4選挙区(坂田・伊香・東浅井・西浅井の4郡)では「自由派」、「独立派」、「老成派」の3派に分かれ運動が展開される一方、有力者らによる候補者選定がなされました。当時は本籍・居住地にかかわらず被選挙権が認められたため、選挙区外の有力者を候補に擁立することが多くありました。実際、このとき滋賀県から選出された代議士5名のうち4名は、第4区の相馬永胤(旧膳所藩士・横浜正金銀行幹部)を含め、東京に居住する名士でした。(『中外電報』)
4-4「ステツキ政略」 明治23年(1890年)6月26日
激しい選挙運動は、時に暴力を伴いました。代議士候補者をめぐって対立が生じた第4選挙区内では、相馬永胤を支援したある有力者のもとに「何ものかとも知れぬ四、五名」が現れ、相馬への支持を取り下げるよう強迫しました。選挙当日の様子についての他の記事は、選挙会場を警察が厳重に警備していたことを報じています。国会開設は人びとの政治参加を拡大し、言論に基づく政治をもたらしたかに見えますが、その主導権をめぐる実力行使はその後も依然として存在したのです。(『中外電報』)