明治5年(1872年)~6年(1873年)にかけて、滋賀県にも文明開化を担う存在として期待された新聞社が生まれます。それが滋賀新聞会社と琵琶湖新聞会社でした。しかし、この2紙を含め明治前半期に生まれた滋賀県下の新聞は短命に終わってしまいます。その中で新たに滋賀県に進出するのが京都の新聞社である京都新報社で、明治15年(1882年)に京都滋賀新報社と社名を変更します。同社は、現在の京都新聞社につながる新聞社であり、このころより滋賀県と深いつながりがあったといえます。
今回の展示では、そうした滋賀県とかかわりの深い「京都滋賀新報」や後継紙の「中外電報」、そして姉妹紙として創刊される「日出新聞」の記事を取り上げていきます。
1-1「新聞紙縦看所、集書館取設に付会社等の取結方」 明治5年(1872年)10月3日
初代滋賀県令の松田道之は開明的な政策を打ち出した人物で知られていますが、そうした政策の一つとして「新聞紙縦看所」と「集書館」の設置を推奨していました。前者は県民の知見を開くことを目的とした新聞を閲覧できる施設で、後者は図書館のことです。滋賀県で初めて発行された「滋賀新聞」(滋賀新聞会社)は、この月に創刊されており、その第1号には新聞紙縦看所を設けたので「来観これあるべし」と掲載しています。【明い33(52)】
1-2「琵琶湖新聞発行の件」 明治6年(1873年)3月8日
「琵琶湖新聞」は、滋賀県下で発行された初期の新聞の一つです。甲賀郡石部村藤谷九郎次たちが新聞刊行を申し出て、それが県に認められました。この布令では「知覚之歩」を進める者は購読し、知識を開いて事業を起こすべしとあり、新聞が文明開化を担うものだという認識がうかがえます。同紙は木版刷で月3回の発行でしたが、明治12年(1879年)に廃業しています。【明い232(2)】
1-3「旧大津日報旧淡海新聞合併、滋賀日報と改題の儀出願候処聴届相成の件」 明治13年(1880年)5月1日
滋賀県初の新聞である「滋賀新聞」は、明治11年(1878年)に「淡海新聞」と改題します。その際、それまでの木版刷の週刊紙から活版刷の日刊紙へと変わり、滋賀県初の日刊新聞紙となります。そして明治13年に同紙は、この布達が示すように「大津日報」(大津日報社)と合併して「滋賀日報」となりました。しかし同紙は翌年には廃刊となり、滋賀新聞会社が再興されて「淡海日報」が創刊されます。【明い117(1)】
1-4「本県報告は滋賀新聞会社及京都滋賀新報社に掲載」 明治15年(1882年)10月21日
明治14年(1881年)に滋賀新聞会社が刊行する「淡海日報」は「江越日報」と改題します。しかし同紙は明治15年4月に一度休刊しています(同年12月廃刊)。この休刊で県会の報道に不便を感じた滋賀県会議員有志からの依頼に応じて、7月に「京都新報」が「京都滋賀新報」と改題して進出してきます。この布達は、そうした事情もあいまって、「京都滋賀新報」にも県報告を掲載することを決めたものといえます。
なお「京都滋賀新報」は、明治17年(1884年)10月に「中外電報」と改題します。また明治18年(1885年)には、発行停止処分を命じられた時の身がわり紙として「日出新聞」も発行されます。「中外電報」は明治25年(1892年)に廃刊となる一方、系列の「日出新聞」が本紙となり、現在の京都新聞の前身となります。【明い131(68)】