3-1「疏水事業に関する要求事項」 明治18年(1885年)10月31日
疏水工事の開始にあたって、滋賀県側は大津西部での飲料水への影響を懸念していました。そこで県は京都府に対して、工事開始に先立ち代用水路の確保や給水方法について検討するよう求めています。これに対し府は、あらかじめ枯渇が予想される場所には水源場を新たに設置して対策を行い、他にも工事によって減水等のおそれがあるときには協議の上対処すると答えています。【明お26(3)】
3-2「大津市中西部の図」 明治17~19年
明治19年1月14日、京都府はまず、疏水路以北への給水元として園城寺境内に新たな水源を確保する計画を提示し、滋賀県はこれを了承しました。その後水路以南でもまた枯渇の心配がでてきて、その対策が必要となります。そこで府は、小関越(渓水)・天狗岩(渓水)・目洗地蔵(湧水)の3か所の水を集めひとつの水源を作り各所へ配給する計画を立てました。本図面は、園城寺境内か小関越か、供給源の境界を示したものです。【明な311(21-3)】
3-3「飲料水補給方法」明治21年(1888年)1月18日
明治21年1月、大津西部への具体的な飲料水補給方法が京都府疏水事務所から提示されました。これによると、新たな水源は園城寺境内と小関越とし、その水源が減量する季節には、琵琶湖の水を引き揚げて代用もしくは補助に充てるとしています。湖水の引き揚げは蒸気器械により行い、漉水器(ろくすいき、汚濁を排除のための装置)を通して各水路組合の樋管へ配水されました。【明ね38(26)】
3-4「飲料水源減水の為め汲取水配与の義に付上申」 明治25年(1892年)1月11日
疏水工事が完了し、代用水源からの給水も開始された後に大津町長から県知事へ提出された上申書です。小関越から水の供給を受けている住戸では、明治24年12月下旬より水量が減少し、一部では全く通水していない状態であったようです。そこで該当箇所へは汲取水を配給するので、その費用を京都府から融通してもらえるよう同府へ照会してほしいと願い出ています。しかし京都府は、小関越を給水元とすることは既に県と協議済みのことで、今更天候の影響で減水したからといってその補償は行えないと拒否しました。【明ね35(1)】
3-5「疏水線路に係る家屋分裂の件」 明治19年(1886年)1月13日
飲料水問題以外にも、近隣住民には様々な影響があり、疏水用地として宅地を買い上げられた住民もたくさんいました。この資料は、宅地の一部を工事用地として買い上げられた住民が、残った土地に家屋を移転することについて、疏水工事に差し支えはないと京都府が回答する文書で、移転費用は京都市が補償しました。【明う138(8)】
3-6「琵琶湖疏水路開設に付両岸道路・橋梁設置の件」 明治19年(1886年)2月22日
神出村から三保ヶ崎までの琵琶湖疏水の開削により、従来の道路が分断されてしまう箇所に対して、京都府が橋を架け、また疏水両岸に幅3間の道路を開通させることを関係役場へ知らせる文書です。橋は4か所に設けられ、京都府によって永久維持管理されることとなりました。【明い166(50)】