1-1「琵琶湖疏水の目論見京都府より照会に付取調方」 明治16年(1883年)11月12日
明治16年、京都府より琵琶湖疏水の目論見書(計画書)が届いたことにより、県は3名の職員(一等属)に事務取調を命じました。その後本県では琵琶湖疏水による湖水位への影響や、疏水により断絶される道路や水脈、灌漑用水の不足などについて調査を行っていくこととなります。【明い140-2(139)】
1-2「琵琶湖疏水図」 明治17年(1884年)12月
京都府による計画は、琵琶湖(三保ヶ崎)から京都府高野川までの延長7,030間(約13km)を開削するもので、その目的は、運輸の便、水力による工業発展、飲料水や防火用水・灌漑用水の確保などにありました。【明ね34(1)】
1-3「琵琶湖疏水の儀に付上申」 明治17年(1884年)3月19日
京都府は起工趣意書で、運輸の便は東は近江国から西は摂津国に及び、「内外公益ノ大ナル」は計り知れないと他府県への利益も説明します。一方の滋賀県は勧業諮問会を開催し、疏水事業に対する利害得失の検討を行いました。本資料はその意見をまとめ国へ報告した文書で、疏水事業は水利への影響が予想されることから、本県にとって「到底有害無益ノ事業」であると批判しています。そのうえで、流水量を調整するなどの予防策を講じる必要性を主張しています。【明ね33(17)】
1-4「籠手田安定任元老院議官、中井弘任滋賀県令9日宣下」 明治17年(1884年)7月10日
明治17年7月9日、滋賀県令であった籠手田安定が元老院議官へと転任し、その後任として中井弘が任命されました。この人事の背景には、琵琶湖疏水の建設に反対の籠手田を昇進のかたちで元老院に転出させ、北垣国道京都府知事とも親しく、土木事業にも大きな関心を持つ中井を抜擢し、疏水事業を推し進めたいという参議(政府の重要官職)らの意向があったようです。【明い153-2(17)】