日本では、明治時代に入ってから政府によって鉄道事業が推進され、明治5年(1872年)東京・横浜間開業をはじめとし、以後各地で敷設が進められました。滋賀県も、東京と京阪神の間に位置し、また日本海側の物流拠点である敦賀に近接しているため、県内に鉄道が開通することになります。
そのなかで、明治10年代の長浜は、敦賀と関ヶ原両方からの鉄道が通り、また港と湖上汽船の整備がなされたことで、鉄道と汽船を連絡させる交通の結節点となりました。
本展示では、歴史公文書や新聞記事をもとに、当時の長浜の様子を紹介します。
①「新道開墾港口修築願書」明治13年(1880年)1月
明治12年(1879年)10月に敦賀・米原間の鉄道敷設が決定し、長浜にも停車場が設置されることになりました。本資料は、翌13年1月に、縮緬製造業などを営む長浜町の豪商浅見又蔵が、滋賀県令籠手田安定に宛てて出した願書です。
これは、民間有志の出資により、長浜から関ヶ原駅までの間に新たな直線車道を設けること、長浜港を修築すること二点に対する許可を求めるものです。どちらも敦賀・米原間の鉄道敷設が決まったことを受けて考案されたものであり、鉄道・車道・湖上航路を長浜で連絡させ、運輸・交通の利便性を高めるための計画でした。浅見はこれにより、長浜ひいては日本の発展を構想していたようで、本資料からは、鉄道敷設の機運に対する長浜地域内からの期待がうかがえます。なお、当初車道敷設が考えられていた関ヶ原までの区間には、のちに鉄道が開通することになります。【明と9(107)】
②「長浜港略図」明治17年(1884年)5月ごろ
明治13年(1880年)11月から、長浜港の修築が進められました。本資料はその概観を示す図です。修築は、河口付近の土地を掘削して港口を広げ、波止場を設けるものです(黒い斜線部分が掘削箇所)。浅見ら町内有志の出資で行われ、明治16年4月に竣工しました。さらに、鉄道と湖上交通との連絡を考慮し、長浜駅は琵琶湖に隣接した形でつくられました(赤い長方形部分が駅)。
またこの間、明治15年5月に、大阪の大資本藤田組などにより、太湖汽船会社が設立されました。浅見も役員の一人で、同社は、鉄道との連絡を担う船会社として長浜・大津間を結ぶようになります。港の修築では、水中の砂浚えも行われましたが、それは同社の鉄船運航を見越してのものだったようです。【明ぬ121‐2(7)】
③「築港式景況」明治17年(1884年)5月28日
その後、明治16年(1883年)5月に長浜・関ヶ原間の鉄道が、翌17年4月に敦賀・長浜間の鉄道が開通し、また同17年5月には長浜・関ヶ原間が大垣まで延伸されました(明治14年ごろ、敦賀までの起点は米原から長浜に変更)。それを受け、17年5月25日に、長浜・大垣間の仮運転式にあわせて長浜築港式が行われました。本資料は、その様子を報じた新聞記事です。
式では駅に花の門がつくられ、停泊中の各船には色鮮やかな旗が立てられ、夜になると、駅付近には数珠つなぎに無数の灯火がともされました。また、公家出身で明治政府樹立に関わった三条実美(このとき太政大臣)も、大津から太湖汽船の鉄船に乗って訪問しました。彦根など周辺地域からも多くの人が集まり、飲食店や宿屋はにぎわいを見せたようです。
こうして鉄道と港、汽船を備えた長浜は、名実ともに交通の要衝となりました。(『京都滋賀新報』)
④「長浜の衰況」明治22年(1889年)12月8日
しかし、明治20年代に入ると状況は変わりました。長浜の繁栄の一方、湖東地域からは大津・長浜間の鉄道敷設を求める声が上がっており、また政府としても、東京・神戸間の開通が急務でした。そこで、明治21年(1888年)1月に大津・長浜間の敷設が始まりました。当初は長浜を経由して大津と関ヶ原方面を結び、東京・京阪神の幹線とする予定でしたが、急勾配のある長浜経由ルートは避けられ、米原を経由地点とするよう切り替えられました。長浜へは米原から分岐し、敦賀に至る新路線が敷設されることになりました(長浜・関ヶ原間は運転休止に)。
こうして明治22年7月に、東京と京阪神を結ぶ東海道線が全通しました。展示の新聞記事では、その後の長浜の様子が取り上げられています。同線が経由しなくなったことで、駅などは「火の消たる如き有様」で、多くの宿屋や荷受問屋などは米原に移転していったようです。記事には、このように移り変わっていく様子に対する情感が表されています。(『中外電報』)