第一次世界大戦以後の日本では、経済の拡大とともに格差が広がり、官民双方において、貧困・社会問題に対応する必要性がより一層認識されるようになりました。
そうしたなか、滋賀県庁内には大正10年(1921年)に、社会行政を担う部署として、社会課が設置されました。その結果、県では社会事業に関わる文書が以前よりも多く作成されるようになったようで、公文書館には、様々な社会事業団体に関する文書が数多く所蔵されています。
本展示では、そのなかから、いくつかの団体をご紹介します。
①「財団法人滋賀県社会事業協会寄付行為」昭和4年(1929年)12月21日
戦前の滋賀県には、社会事業の普及と発達を目的に掲げる滋賀県社会事業協会という団体がありました。大正7年(1918年)の米騒動の際に用意された窮民救助資金を元手に翌年に滋賀県救済協会として設立され、大正13年(1924年)に社会事業協会と改称されました。
会員は県内の社会事業団体や寄付者で構成されましたが、事務所は県庁内に置かれ、知事が会長を務めるなど、半官半民の性格をもっていました。県と社会事業団体間、または社会事業団体同士の意思疎通を図ることや、社会事業の助成、機関誌『共済』の刊行などが事業内容でした。【大そ49(30)】
②「財団法人彦根共存会設立趣意書」昭和5年(1930年)3月13日
ここからは、県内各地の団体に目を向けてみたいと思います。
まず一つに、彦根町には、貧困者救済などに取り組んできた彦根共存会という団体がありました。大正14年(1925年)9月1日に設立され、昭和5年(1930年)に財団法人となりました。設立には、安居喜八、前川善平、服部繁松など、当時町内「屈指の資産家」といわれた人物が関わっていました。
本資料には、失業者などの困窮者が「近時著しく其数を加へて来た」こと、また、「生活難」によって「近時社会を呪ひ富豪を呪」う雰囲気があるといったことが書かれています。そのような状況に対する危機感が、活動を行う背景にあったようです。【大そ49(37)】
③「〔川彦財団法人設立者の履歴書〕」昭和6年(1931年)10月21日
滋賀郡小松村(現・大津市北部)には、昭和7年(1932年)に川彦財団法人という団体が設立されました。小松村出身で東京に出て水産加工佃煮販売業を営んでいた川端彦三郎が死去した際、その遺志を受け、遺財をもとに妻のマサが地元に設立した団体です。名称は彦三郎の名からとられたものと思われます。貧困者救助や軍人遺家族救護、罹災者救助、奨学資金助成などが事業内容でした。
本資料は、設立申請書に添付されたマサの履歴書です。大正12年(1923年)9月1日のこととして、「関東大震火災に合ひ店舗全焼の難を受け」たと記されています。こうした自身の関東大震災被災の経験も、設立の動機に関係しているのかもしれません。【昭そ32(2)】
④「財団法人米久報徳会寄付行為」昭和5年(1930年)3月15日
蒲生郡苗村(現・竜王町地域)には、財団法人米久報徳会という団体がありました。昭和5年(1930年)に、同郡出身、東京在住の竹中久太郎が地元に設立した団体です。竹中は蒲生地域に土地をもつ地主であり、また、東京で牛肉店「米久」を営んでいました。団体の資金には、竹中の寄付金と、彼が団体に提供する田地の小作米収入が充てられました。青年の集会所および図書館の経営、農繁期託児所の経営、窮民救助、学資貸与などが事業内容でした。【昭そ32(1)】