3-1「中部運河計画調査報告会復命書」 昭和37年(1962)1月30日
昭和37年1月18日に開催された中部運河(日本横断運河)計画調査報告会の復命書です。本県の立場からの運河の問題点等が指摘されており、その1つとして中部運河という名称は、もっと日本的なものを用いるか、または「びわ湖運河」とするのが適当であると報告しています。その理由は、琵琶湖は運河通過地のうち最も著名かつ、代表的なもので、運河に使用する水も琵琶湖の水であるから、とのことでした。【昭12-25(6)】
3-2「日本横断運河計画路線図」 昭和38年(1963)9月
日本横断運河建設促進期成同盟会が作成した、日本横断運河の計画路線図です。伊勢湾から揖斐川沿いに北上し、駒野付近で揖斐川と分かれ、開削した運河を通り長浜市街北方で琵琶湖に出て、塩津から敦賀までを開削するルートです。ロック(水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置)を用いた、3,000t級船舶が航行可能な規模の運河で、片道最短13時間、1日の往復船舶の最大限は18隻と考えられていました。【昭12-31(22)】
3-3「自民党副総裁・大野伴睦座談会記」昭和39年(1964)春
日本横断運河構想を支えた中心人物として、自民党副総裁であった大野伴睦の存在があります。日本横断運河建設促進議員連盟や同運河建設促進期成同盟会の会長を務め、運河建設のため尽力しましたが、昭和39年5月29日に夢半ばで逝去しました。この記事は同年春に放送された東海ラジオでの座談会を再編集したもので、前述の2団体の機関誌『横断運河』に掲載されたものです。本県と同じく海のない岐阜県で生まれた大野は「海のないところに生まれたのだから、海というものに対して非常なあこがれを持った」と岐阜県を運河によって海とつなぐことへの思いを語っています。【昭12-31(22)】
3-4「日本横断運河建設促進地方議員連盟役員会復命書」 昭和44年(1969)2月3日
県議会議長へ提出された、日本横断運河建設促進地方議員連盟役員会の復命書です。本役員会が開催された昭和44年頃は、自動車による輸送が活発になってきていました。また、運河建設よりも道路建設の方が投資効果が高いこともあり、「運河よりも道路」といった意見が強くなってきているようです。このような背景もあり、運河構想は同年度で調査が打ち切られ、実現には至りませんでした。【令3-3909(12)】