2-1「淀川水系流域一覧図」 昭和48年(1973)3月
昭和48年に水資源開発公団が作成した『琵琶湖開発事業概要書』に所収の図です。琵琶湖は淀川水系にあたり、琵琶湖へは野洲川や姉川、安曇川や愛知川など多くの川から水が流れ込みます。一方でその出口は瀬田川ひとつです。瀬田川は京都府に入ると宇治川となり、京都府と大阪府の境界あたりで桂川と木津川と合流し、淀川となって大阪湾までつながっています。【令3-3911(10)】
2-2「琵琶湖利用対策に関する意見書」 昭和8年(1933)12月22日
県会議長から知事へ提出された琵琶湖の利用に関する意見書です。現状では「天恵ノ大湖」である琵琶湖を開発する手立てがなく「宝庫ヲ死蔵」しているといい、この琵琶湖を利用開発するための方策を樹立するために調査研究機関を設置するよう要望しています。この意見書をうけ、昭和10年4月10日には琵琶湖対策審議会が設置されています。【昭く14(11)
2-3「琵琶湖総合開発に対する意見書」 昭和27年(1952)3月
電源工学や土木の専門家らが、宇治川筋の発電計画に対する建設省案、関西電力案、滋賀県案を比較検討し、建設大臣に提出した意見書です。発電量は建設省案が一番多く下流からの支持を受けていましたが、県は大津市大石地区が水没し、また低水位補償の少ないことなどからこの案には反対していました。その後、昭和28年9月に襲来した台風13号の出水で、琵琶湖開発の重点が発電から治水に移行することとなり、最終的な結論がでないままこの電源開発論争は終結します。【昭ぬ123(7)】
2-4「堅田締切堤案」 昭和35年(1960)8月30日
高度成長期の阪神地区の人口増加や工業の発達にともなって、下流から水の需要が急激に増え、下流の水需要にこたえるための開発案が現れては消えていきました。その1つが琵琶湖総合開発協議会(近畿地方建設局や関係府県で構成)において発表された堅田締切堤案です。これは琵琶湖を堅田と守山の間で締め切り、北湖と南湖に2分して、北湖の水位だけを下げようというものでした。これに対し本県知事は、県を分断して湖北と湖南の格差を大きくするとして反対の態度をとっています。【昭12-21(20)】
2-5「天ケ瀬ダムに関する経緯」 昭和37年(1962)3月
この資料は、洪水調節と発電を目的に計画された天ケ瀬ダム(京都府宇治市、昭和32年着工)建設に関する記録を県がまとめたもので、ダム建設の関係都道府県の解釈をめぐる本県と国とのやり取りも記載されています。国は当初、本県はダム建設費を負担する関係都道府県ではないので意見を徴しないとしていましたが、多くの水没地の発生や、琵琶湖の水位に変動を及ぼす問題等も予想された本県では、当然意見を徴すべきであると抗議しています。 その結果、昭和33年4月25日に、建設大臣から本県へダム建設に対する意見が求められることとなります。【昭12-26(1)】
2-6「水資源開発二法案に関する修正案」 昭和36年(1961)5月
本資料は、水資源開発促進法と水資源開発公団法の二法案に対する本県の修正案をまとめたもので、5月25日に開催された県選出国会議員との懇談会において資料として配布されました。水資源開発促進法の目的として、水資源の総合的な保全、涵養並びに開発及び利用の合理化の促進を図るべきことを明確に規定すべきということや、関係都道府県の範囲を、本県を含む「開発水系全流域に亘る都道府県」とすべきであるということなどを述べています。【昭12-22(3)】