5-1「琵琶湖疏水水路開鑿願(第二疏水)」 明治38年(1905年)9月1日
京都市による滋賀県知事宛ての第二疏水開削願書です。第二疏水の目的は、京都市の上下水道水、防火用水、工業用水(水力発電)としてさらなら水量を京都市に流すことにあり、その計画水量は550立方尺/秒でした。【明ね41(13-2)】
5-2「第二疏水事業に対する意見書」 明治39年(1906年)3月5日
大津市会議長から県知事へ宛てた京都市による第二疏水事業に対する反対の意見書です。議長は、今なお解決していない大津西部飲料水問題を取り上げ、第二疏水工事によってさらなる被害が拡大することを懸念しています。そのうえで、もし起工を許可する場合には、大津市の被害に対して充分な補償がなされるよう求めています。飲料水問題は、京都市により明治43年に近代的な電動給水設備が整備されるまで続きました。【明ぬ66-2(19)】
5-3「附属命令書(疏水使用料)」 明治39年(1906年)4月4日
第二疏水は明治39年4月4日付けで京都府知事・滋賀県知事の連名により許可されました。その際、附属命令書により京都市は使用料として毎年1,600円を滋賀県へ納付することが命じられました。これは、琵琶湖に旧河川法が準用されて以降に開削される第二疏水は、同法第42条の定めるところにより、河川使用料を徴収することが可能となったからでした。大正13年の内務省土木局通達により地方公共団体から水利使用料を徴収することができなくなって以降は寄付という形で相当額を納めることになり、、現在では、感謝金として第一・第二疏水あわせて2億3千万円が京都市から滋賀県へ支払われています。【明ぬ67(1)】
5-4「命令書(宇治川電気株式会社)」 明治39年(1906年)4月4日
琵琶湖疏水の特に発電事業での成功を見て、県内外からも次々とポスト琵琶湖疏水計画といえる事業案が提出されます。数々の計画が立てられては消えていく中、発電事業に特化した「宇治川電気株式会社」が誕生します。南郷付近で瀬田川から2,200立方尺/秒の水を引用し宇治川まで水路で流し、そこで水力発電を行うもので、大正2年に工事が竣工しました。【明ぬ65(17)】