3-1『神崎郡誌 全』 明治13年(1880)1月
愛知川に架かる御幸橋は、江戸時代まで通行料をとらず、寄付で維持をしたため無賃橋と呼ばれていましたが、明治11年の明治天皇巡幸のため橋を新設したことをきっかけに、御幸橋と名前を改めました。しかし、中山道という交通の要衝にありながらも、愛知川の氾濫による流失が続いていたことから、明治23年より木橋から木造トラス橋(桁部分を三角形に繋いだ橋)へ改築工事を始めることとなりました。【資-388】
3-2「御幸橋墜落実況取調図」 明治24年(1891)10月26日
明治23年から始まった改築工事により、明治24年10月、完成した橋の渡橋式が行われました。しかし、押し寄せた人々の重さに耐えきれず落橋し、死者4名を含む270名の死傷者が出る事態となりました。本資料はその落橋事故の様子を描いた図です。事故当時の橋長は233メートル、木造のトラス橋でした。200人の搭載が限度のところ、渡橋式の際に御幸橋を渡ろうと数万人の参加者が押し寄せ、第7・第8号橋脚の橋桁付近へ負担がかかり落橋事故に至ることとなりました。【明に20(19)】
3-3「御幸橋改築工事の請願書」明治24年(1891)11月
御幸橋周辺の村長らによる、堅牢な橋への再改築を請願する文書です。本文中には、「堅固不朽」と信じる橋の工事着手に「歓喜雀踊」した人々の様子や、その落橋により「落胆失望」した思いも記されています。この請願を受け、御幸橋は再改築が決定し、明治26年には無事渡橋式を迎えることができました。この再改築後の木鉄トラス橋は、大正15年に鉄筋コンクリート造に改築されるまで、中山道を通る人々の助けとなりました。【明に20(1)】