4-1「関西府県連合事務所東京横浜支所を置き職員設置の件」 大正12年(1923年)9月11日
関西府県連合震災救護事務所は、中国・四国地方を含めた2府11県からなる連合組織です。救護班の派遣、避難民の受入れ、義捐金品の募集を行いました。この資料では被災地である東京と横浜に支所を置き、関西府県の職員を派遣することが述べられています。滋賀県職員からは1名が選ばれています。【大そ25(56)】
4-2「震災救護関西府県連合事務所の事務概況の通報」 大正12年(1923年)10月31日
地震後には上野公園に50万人、宮城前広場(現・皇居前広場)には30万人の家を無くした人々が避難していました。関西府県連合は東京・横浜でバラックの建設にあたり、東京で300棟、横浜で200棟を建設しました。木材は大阪で加工され、船で輸送し被災地で組み立てられました。板張りの床の上にムシロやゴザを敷き、約60坪の広さでした。 【大そ12(2)】
4-3「救護用物資受渡調査の件回答(照会)」 大正12年(1923年)11月20日
食糧や衛生用品など様々な救援物資は、船や鉄道で被災地へ送られました。船での輸送の場合、滋賀県で集められた救護活動用の脱脂綿は大阪港へ送られ、東京の芝浦港を通り、被災地へ届けられました。【大そ18(54)】
4-4「震災救護仮病院入院患者一同よりの「謝恩」帳供覧」 大正13年(1924年)1月22日
関西府県連合震災救護事務所は横浜市に仮病院を建設し、被災者の救助や治療に当たりました。大正12年(1923年)10月1日に仮開院し、内科と外科の医師22人、看護婦101人、薬剤師7人、事務職員46人の体制でした。12月20日から病院施設は神奈川県に譲渡され、診療活動は続けられました。病院を利用した患者数は延べ3万892名にのぼりました。この資料は、当時の入院患者たちから、感謝の言葉が綴られたものです。【大そ16(19)】
4-5「関西から東京へ送られた木材」
大阪から東京へ船舶で送られた木材。避難者用バラックなどに使われました。(『古今写真大観 関東大震災』所収 ) 【滋賀県立図書館所蔵】
4-6「避難者用バラック」
東京市麴町区(現・千代田区)の靖国神社内に建てられた避難者用バラック群。東京府などが建設しました。(『古今写真大観 関東大震災』所収)【滋賀県立図書館所蔵】