1-1「瀬田川改修の上申書」 明治24年(1891)9月30日
県から内務大臣への上申書です。古来水害に悩まされてきた本県は、琵琶湖からの唯一の出口である瀬田川の疎通能力を高めるために浚渫(しゅんせつ)を行なってきました。一方で下流地域は、瀬田川の疎通能力が高まると淀川が増水しやすくなると浚渫(しゅんせつ)には反対してきました。本上申書では、本県の利益が下流の害となることはありうるので、争いが起こらないように瀬田川改修は政府直轄事業にしてほしいと求めています。【明と54-1(25)】
1-2「疏水路通水量の義に付上申」 明治29年(1896)10月20日
明治29年9月初旬、連日の降雨により琵琶湖はどんどん増水し、同月7日には各河川や琵琶湖が氾濫しました。水位がさらに上昇するなか、8日には京都市が琵琶湖疏水の閘門(こうもん)を閉鎖し通水を止めます。焦った県は、13日、速やかに規定の水量を通水させるよう京都府に求めますが、閘門(こうもん)の開閉は京都市の「専権」だとして拒まれました。本文書は、県から内務省に提出した上申書で、京都府の態度を「条理ニ背キタルモノ」と強く非難し、至急開門して通水させるよう求めています。【明ね39(40)】
1-3「瀬田川洗堰築設の義に付上申」 明治29年(1896)10月26日
知事から内務大臣へ宛てた上申書です。明治29年の水害発生当時、淀川(瀬田川)改修工事の一環で、滋賀郡石山村大字南郷に「洗堰」を建設する計画が立てられていました。この堰が完成すれば、瀬田川の流水量が自由に変更できるようになります。ただ、洪水時には堰を閉め切るという計画にはもともと異論があったことに加え、直前の洪水において疏水の閘門(こうもん)を閉鎖された経験のある本県は、大阪と京都の「下流二府ニ利アレハ本県ニ害アルハ地形上免カレ難キ」ことなので、洗堰の建設は「公平至当ノ計画」となるようにと求めています。【明ぬ147(21)】
1-4「南郷洗堰」(『琵琶湖治水沿革誌』所収) 明治末~大正期
明治38年、南郷洗堰が完成し、治水を目的とした瀬田川の水量調節が国により行われるようになります。しかし、その後も、堰の開閉をめぐって上下流の対立は続きます。大正6年の9月末から11月にかけて発生した洪水では、琵琶湖だけでなく、下流でも氾濫が相次ぎ、10月1日には洗堰の角落(流量を調節する角材)が挿入され、瀬田川の流量は減少しました。これにより、琵琶湖の水位がますます上昇することになり、本県は角落の抜取を訴えました。角落の抜取をめぐる上下流の争いは11月になっても収まらず、大正天皇が行幸の際、内務大臣とともに視察するまでになりました。【資524】