滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

3-1「敦賀県合併の達」 明治9年(1876)8月21日

 明治5年9月に現在と同じ県域となった滋賀県ですが、その4年後には再び変化がありました。明治9年8月、内務省が「統治ノ便宜」の観点から、地勢の特性を踏まえた大規模な府県廃合を進めたのです。このとき、現在の福井県全域を管轄していた敦賀県も、交通の難所・木ノ芽峠(木嶺)を抱えており、その南北では人情・風俗が大きく異なっていました。そのため、同県の廃止が決まり、北部7郡は石川県に、南部4郡は滋賀県に合併されることになりました。【明あ85(54)】

 

3-2「敦賀港大坂間道路修理の義に付上申書」  明治9年(1876)9月27日

 敦賀県との合併にともない、日本海有数の良港である敦賀港も、滋賀県の管轄となりました。しかし、同港と琵琶湖に面する塩津港を結ぶ道路のうち、深坂峠は交通の難所として知られ、物資の大量輸送に欠かせない馬車や牛車の往来が困難な状況でした。そこで県権令の籠手田安定は、この道路を改修して北海道の物産を大坂まで運べるよう、本資料で内務省に官費の借用を求めます。しかしその翌月には、自費を以て起業すべしとあっさり断られてしまうのでした。【明う21(160)】

 

3-3「福井県合併反対の建議」明治14年(1881)2月13日

 敦賀県との合併から4年半を経て、再び滋賀県の管轄地が変更となります。明治14年2月7日、太政官から新たに福井県を置くので、若越4郡(旧敦賀県域)を引き渡すよう通知があったのです。これを受け、県令籠手田安定は、太政官と内務省に合併反対の建議書を提出しました。敦賀郡は木ノ芽峠を境に「地脈ヲ断絶」している一方、敦賀港と近江国との関係は大変深く、「決シテ分割ス可ラサルモノ」であると、人民の利害を考慮するよう求めています。【明お76-5(31)】

 

3-4「奉呈建白附録添書」 明治14年(1881)3月18日

 籠手田の建議は聞き入れられることなく、3月12日、若越4郡は福井県に引き渡されました。しかし4郡の人民は、東奔西走して苦情を訴え、県からの説諭も聞かないことから、再び籠手田は追加の建議書を提出しました。特にその「附録(ふろく)」である本資料では、福井に県庁舎が置かれると、積雪の際に交通が遮断され、若越4郡の人民が大きな不便をこうむると、略図を添えて訴えています。当時は若越4郡が滋賀県に属することは「明カ」なことだったのです。【明お76-5(31)】

 

3-5「敦賀港遠見図(上)・測量図(下)」明治8年(1875年)

 この図は、まだ敦賀港が敦賀県に属していた頃、同県が作製したものです。作者の林蕃は、後に滋賀県の嘱託を務め、洪水が多発する田川・高時川・姉川の報告書『三河川重要摘集』(資394)を著した人物です。左の測量図は敦賀湾が描かれ、朱書きで沿岸部の深さが記されています。一方、右の遠見図には、管内の若狭国はもちろん、琵琶湖や近江国の村々が数多く描かれており、敦賀港と近江国の関係の深さをうかがうことができます。【明へ76(3)】

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