1-1「大津裁判所総督任命の達」 明治元年(1868)3月7日
大津裁判所とは、慶応4年(1868)に近江・若狭両国の新政府直轄地を治めるために設けられた地方行政機関のことです。明治政府の公式記録である本資料には、3月7日に公家の長谷信篤が総督(長官)を拝命したと記されています。しかしその根拠はあいまいで、3月10日という資料や、3月1日には既に任命されているという資料の存在も注記されており、正確な「拝任ノ日ハ知ルへカラス」というのが実態だったようです。(『太政類典草稿』国立公文書館蔵)
1-2「県名改称の達」 明治5年(1872)1月19日
慶応4年(1868)閏4月、太政官が全国を府・藩・県の三治体制に改めたことから、大津裁判所も廃され、新たに大津県が発足します。しかし、もともと幕府代官所が置かれていた大津の名称を用いることは、「愚民」が旧習を捨て、開化に進む障害になるとして、明治4年12月、県名改称の要望書が大蔵省に提出されます。この上申は認められ、翌5年1月、庁舎が置かれた円満院が滋賀郡別所村にあることなどから、その郡名をとり滋賀県と改められました。【明う152(13)】
1-3「犬上県合併の達」 明治5年(1872)9月28日
滋賀県改称時の管轄地は、近江国の南半分にとどまり、北部地域は旧彦根藩を前身とする犬上県が管轄していました。しかしその後、全国的に府県廃合が進められ、明治5年9月28日、太政官は犬上県を廃止して、滋賀県と合併させることを、本資料で滋賀県に通知します。この合併によって、近江国全域が滋賀県の管轄となり、現在と同じ県域の滋賀県が成立することになります。同年10月、県は布令書を発布し、その旨を県民に知らせました。【明う151(27)】
1-4「犬上県合併の布告」 明治5年(1872)9月29日
犬上県合併の達が滋賀県に出された翌日の9月29日、太政官は全国の人民に向けて、その旨を本資料で布告しています。明治18年に太政官文書局が編集した『法令全書』にも、本資料が掲載されていますが、当時『官報』の役割を果たした『太政官日誌』(第77号)には、資料1-3の太政官達が用いられています。そのため、その後の県刊行物においては、『滋賀県統計全書』(明治22年度)を例外として、9月28日の日付が重視されました。【明あ10(97)】