6-1『大津都市計画街路網並埋立設定概要』 昭和7年(1932)9月30日
県都大津の人口は、大正期には飽和状態を迎え、実質的な都市の範囲が、行政区分としての市域外まで及ぶようになっていました。そのため、昭和2年9月の大津市会では、近隣町村を含めた総合的な都市計画の必要性が議論され、内務省に都市計画指定を促す建議を可決しています。翌年同省はこの要望を受け入れ、昭和7年9月、「我国屈指ノ遊覧地」たる大津に街路網を整備することと、過密緩和のための湖岸埋め立てを明記した都市計画が策定されました。【昭な184(1)】
6-2「大津都市計画区域一般図」 昭和7年(1932)8月
昭和4年6月に指定された都市計画区域は、北は坂本村から、南は石山町・瀬田町までを含むものでした。本資料は、その範囲における名勝地をマッピングしたもので、来迎寺や瀬田唐橋、滋賀都趾(大津宮跡)などが記されています。都市計画では、これらをつなぐ交通手段として、バスの利用が想定されており、51の路線が定められました。【昭な184(1)】
6-3「大津行進曲」 昭和7年 (1932)
都市計画の策定とともに、大津市と近隣町村との合併も進められました。昭和7年5月に滋賀村、翌8年4月には膳所町・石山町を加えた「大大津市」が誕生します。新大津市は「遊覧都市として全国に一寸比類の無い特色」があるとされ、交通網の整備等により「天下の遊客」を招致することは、我々の急務と位置付けられました。本資料は、そのうち滋賀村との合併時に作られた記念歌の楽譜で、三樹樹三(県内務部長)が作詞、磯部巌(県地方課長)が作曲しています。【昭こ25(23)】
6-4「[葉書]堀田義次郎顕彰像」 昭和59年(1984)10月
新大津市会は政友会系が圧倒的に優勢で、初代市長に就いたのは、元県知事の堀田義次郎でした。大津市長を3期務めた堀田は、膳所の湖岸埋め立てや石山公園の設立など、大津の遊覧都市化に努めますが、日中戦争の影響もあり、本格的な湖岸道路の整備は、戦後に持ち越されました。その努力は、昭和25年7月、全国初の国定公園(琵琶湖国定公園)指定として、実を結ぶことになります。【寄1-45】