3-1「県史編纂職員設置規程」 大正10年(1921)3月16日
景勝地の着目とともに、県の歴史を見つめなおそうという機運も次第に高まっていきました。明治元年(1868)から満50年の年にあたる大正7年(1918)12月の県会では、県誌(史)編纂予算が可決され、翌8年11月、県内務部は郡市に県史編纂資料の提出を呼びかけています。大正10年度からは予算も増額され、専任の編纂嘱託員として、当時福井県で県史編纂に従事していた牧野信之助が招聘されました。【大あ43-5(36)】
3-2「史料編纂掛嘱託依頼の書簡」 大正10年(1921)7月8日
県史の史料収集にあたり、牧野は東京帝国大学史料編纂掛の協力を得ることにしました。本資料は、その際牧野が県地方課長に宛てた書簡です。同掛が所蔵する大量の史料をいちいち出張して謄写することは不可能であるため、掛内の者を嘱託として雇うことになったと報告しています。その後牧野は、17日から東京へ出張し、依頼する広野三郎(史料編纂官補)と謄写範囲や報酬額(月額25円に決定)など、詳しい勤務条件を相談しています。【大お7(14)】
3-3『滋賀県史編纂の要旨と史料提出に就ての希望』 大正10年(1921)11月
県史編纂係が発行した県民に史料提供を呼びかける冊子。秀吉や家康といった著名人のものにとどまらず、「庶民階級の生活」を描くため、「名もない百姓の証文」なども重視することが記されています。広い意味の史料として、建築や彫刻、絵画、古社寺なども、もれなく報告するよう求めました。牧野にとって、県史編纂の目的は、「この国土に生活し関係のある人々の祖先の活動」を一つの体系の下に叙述することにあったのです。【明ふ150-4(12)】
3-4『滋賀県史』 昭和3年(1928)3月25日
こうして完成した『滋賀県史』全6巻は、第1巻を概説にあて、平易な口語文で叙述するなど、読者を意識した構成となっています。題箋(扉の字の揮毫)は杉浦重剛(東宮御学問所御用掛)、装丁を杉浦非水(三越呉服店嘱託デザイナー)が担当しており、デザインにもこだわりが伺えます。その後も牧野は、『堺市史』『北海道史』に携わり、晩年は『大津市史』の監修を務めるなど、地方史編纂のエキスパートとして、多くの業績を残しました。(滋賀県蔵)