4-1「干拓で生じた新たな土地の字について(早崎内湖) 」 昭和46年(1971)7月12日
新たな土地には、新しい住所が必要です。早崎内湖の干拓により湖北町とびわ町に新たに生じた土地には、「昭和新田」や「西田」という字(集落の最小単位)が付けられました。【昭10-170(6)】
4-2「土地の境界論争(小中の湖) 」 昭和30年(1955)
小中の湖の干拓地には、入植が済んだ後も所属(蒲生郡安土町か神崎郡能登川町)が決まっていない場所がありました。昭和30年、このままでは県議会議員の選挙区が定まらず混乱するので、早急に解決するよう協議が行われました。本文書は、該当地域に住む入植者の陳情書で、彼らは入植当初、県から能登川町民として土地を分譲され、これまで能登川町で地方行政手続などを行っていたので、継続して同町への所属を訴えています。【昭10-147(4)】
4-3「土地配分計画についての基本的な考え方(津田内湖)」 昭和44年(1969)1月
干拓された土地では、一部で入植者を受け入れていましたが、そのほとんどは周辺農家へ増反されました。津田内湖での増反対象者は、周辺の農家で増反により2haの経営規模となる者、干拓により影響を受けた漁業関係者、また干拓により用地を買収された者などとされました。【令2-2869】
4-4「小中の湖干拓田の分譲について」 昭和21年(1946)10月
昭和17年に着工した小中の湖は、最も早く干拓された内湖で、周辺農家への増反だけでなく、入植者も受け入れた干拓地のひとつです。本資料は、入植者の内、近江農業修練所の生徒であった者のリストです。それぞれ田1丁と宅地1反が配分され、彼らは新しい土地に住まいながら農業を営むことになります。【昭26-443(8)】
4-5「入江干拓地入植者決定について」 昭和22年(1947)4月
入江内湖への入植が許可された人のリストです。氏名や年齢のほかに、前職や農業経験の有無などがまとめられています。このリストによると、入植者の前職は雑貨商や建具商、菓子製造など、必ずしも農業経験者だけが選ばれたわけではなかったことがわかります。【昭26-452(1)】
4-6「入江干拓地概況説明(湖国巡幸)」 昭和26年(1951)
昭和26年の昭和天皇の湖国巡幸では、入江干拓地を訪れています。104戸の農家が入植し、504戸へ増反された当地では、毎年5千石近くの米が生産されており、中には反収3石2斗の成績を上げている農家もあったようです。【資631】