3-1「琵琶湖干拓事業計画書」 昭和19年(1944)3月13日
内湖の干拓計画は昭和18年、国が推し進める河水統制事業の一環として実現します。河水統制とは、琵琶湖の水位を1m下げて、湖水の利用度を高めようとするもので、事業の目的のひとつに、40か所、3,000haの内湖干拓をあげていました。【昭た501(1-1)】
3-2「生れる広大な美田(新聞切り抜き) 」 昭和18年(1943)
河水統制に関する新聞記事の切り抜きです。記事にもあるように、本事業の大きな目的は食糧増産と電力源の確保でした。40か所の内湖を干拓することにより「広大な美田」を作り、米約7万5千石、麦5万石を増産し、農産県として多大な利益が生まれる見込みであると記されています。【昭ぬ123(19)】
3-3 「干拓総務課、干拓技術課の設置」 昭和19年(1944)7月4日
今後本格化する干拓事業を円滑に進めるため、経済部に干拓総務課と干拓技術課が設置されました。干拓に伴う技術面、すなわち測量や工事の監督などは干拓技術課が所管し、それ以外の部分を干拓総務課が担当することとなります。また、現地には琵琶湖干拓事務所が設置されることとなります。【昭あ147(504)】
3-4「干拓の方法(塩津内湖)」 昭和21年(1946)6月
昭和19年に干拓工事が開始され、同26年に完成した塩津内湖の干拓事業計画書です。資料によると、干拓の方法は、内湖周辺に琵琶湖と遮断するための堤防を築き、内部の水を排水するというもので、他の内湖でも同様の手法が用いられたようです。【昭ぬ125(4-12)】
3-5「干拓事業の進捗状況」 昭和21年(1946)1月
昭和21年の知事引継書です。進行中の内湖干拓工事の状況が記されており、資材や労働者が不足するなか工事が進められた様子が記されています。この労働者不足を補うため、県内外から多くの人々が集められ、例えば入江内湖では彦根中学校をはじめとする学生のべ39万6千人、増産隊一般奉仕団のべ11万2千人が動員されたといいます。【昭01-1(18)】
3-6「水茎地区入植経営計画基本書」 昭和22年(1947)9月22日
水茎(すいけい)内湖は地質や地形的条件から、干拓地の中でも稲作的には「最不良の地区」とされてきました。そこで、他の干拓地のような「稲作り良田一本槍」の営農ではなく、果樹園や酪農飼料、畑などを融合した「日本農業型に適応せる近代的多角的酪農部落」を実現することによって、入植模範地区を建設しようという計画が立てられました。【昭26-439(2)】
3-7 『大中の湖干拓地農場整備事業調査成績書』 昭和41年(1966)
昭和22年、これまで干拓の大部分を担っていた農地開発営団が閉鎖し、事業が国営移管されるに伴い、計画の見直しが行われ、琵琶湖最大の内湖・大中の湖の干拓が始められます。大中の湖では、食糧増産だけでなく、大型機械を導入した大規模営農形態の導入が模索されました。本書は、新農村建設に向けた現地での調査、実験を記録したものです。(【県刊行物443】県民情報室所蔵)
3-8「津田内湖における生産計画(図面)」 昭和45年(1970)
最後の干拓地・津田内湖の干拓が終わる昭和45年の前年、食糧増産政策から一転、米の生産過剰により生産調整が行われるようになります。そこで、津田内湖では、当初水田を作る予定を途中で変更し、いちじく畑(茶色部分)やれんこん畑(紫色部分)へと変えられました。【令2-2869】