3-1 「江頭農産銀行営業報告書」 明治27年(1894)1月24日
江頭農産銀行は、明治25年2月20日に近江八幡で開業した銀行です。明治20年代後半以降の滋賀県下は、近江商人や地主の手により相次いで銀行が設立されていました。江頭農産銀行もその一つで、県下の有力な農業金融機関として次第に発展していきました。【明て68(11-1)】
3-2 「長浜貯金銀行申込簿」 明治28年(1895)3月
長浜貯金銀行は明治28年4月27日の創立で、同年5月1日から神戸(こうど)(現長浜市)で営業を始めました。その後、業績を伸ばし昭和12年(1937)湖北銀行と合併します。この史料は銀行株式の申込名簿で、頭取の石居四郎平や長浜経済界の重鎮である浅見又蔵らが名を連ねています。【明て71(68-7)】
3-3 「近江貯金銀行目論見書」 明治28年(1895)5月
県下では日清戦争後の明治28年から32年頃にかけて、近江貯金銀行のような地方資産家による小銀行が多く誕生しました。近江貯金銀行は明治28年7月に設立され、大正13年の解散まで本店を大津、支店を大溝、今津、海津、堅田に置いています。この目論見書によると資本金は5万円でした。【明て69(81)】
3-4 「長浜銀行設立免許申請状」 明治28年(1895)11月11日
長浜貯金銀行の設立と同年の明治28年12月、長浜市北船に長浜銀行が誕生します。当初の資本金は25万円で頭取に近江製糸の創立者下郷伝平が就任しました。日露戦争までは営業の拠点を広げていきましたが、戦後はその影響による生糸相場の変動を受け損失を被ります。結果、明治39年に近江銀行と合併することになりました。【明て3(4)】
3-5 「彦根商業銀行設立許可通知状」 明治29年(1896)6月22日
当時、国立銀行には私立銀行のような貯蓄業務が許されていなかったので、この部分を独立させるかたちで、明治28年6月に第百三十三国立銀行の中小企業向け金融機関として資本金4万円で近江貯蓄銀行が、翌年7月には同じ目的により資本金20万円で彦根商業銀行が設立されました。【明て9(43)】
3-6「彦根商業銀行印鑑上呈書」明治29年(1896)7月13日
彦根商業銀行の頭取には第百三十三国立銀行の頭取でもある広野織蔵が就任し、取締役等役員にも同行の役員や大株主が就任しました。第百三十三国立銀行は後に現在の滋賀銀行の母体となります。広野織蔵は近江鉄道株式会社の取締役も兼ねており、資金繰りに苦しむ同社への多額の融資などを行い経済界を牽引した人物です。【明て10(33)】
3-7 「八幡銀行大津支店開業祝辞」 明治29年(1896)12月5日
八幡銀行は、滋賀県で初めて県内に本店をもつ私立銀行として、明治15年2月近江八幡で開業しました。近江商人らしい堅実な経営とともに、近隣地域に支店を設け、営業地域を拡張していきます。明治29年には現在の浜大津の地に近代西洋建築の大津支店を開設し、県内の有力行となっていきます。【明お58-1(5)】
3-8 「八幡銀行定款」 明治32年(1899)7月
八幡銀行が明治15年に誕生した後、20年代に入ると政府によって商法や銀行条例が施行されていきます。これを受けて八幡銀行は定款の改定を行い、行名が「株式会社八幡銀行」に改称されました。新しい定款では監査役の新設と取締役の増員が加えられ、経営陣の拡充が図られています。【明て27-1(6)】
3-9 「西川重威実業功績者調書」 大正6年(1917)
西川重威は蚊帳・寝具販売の近江商人として財を成した西川甚五郎家の11代当主です。幕末維新期の激動期に困難な経営を担い、改良機械を導入した蚊帳製織工場の新設や布団の仕入れ・販売の強化、八幡銀行の創設などに従事し、後には県会議員や衆議院議員も歴任しました。【大ふ8(39)】