6-1「震災事務日誌」明治42年(1909)8・9月
明治42年8月14日、滋賀県北東部の姉川付近を震源地とする大地震が発生します。後に「姉川地震」と呼ばれるこの地震は、東浅井・坂田・伊香3郡に甚大な被害をもたらしました。本文書は、県の森林課が作成した震災後の事務日誌です。それによると、同課では翌15日より県営苗圃事業の被害状況や、被災者の避難状況などを視察していたようです。18日には、全壊した東浅井郡役所など、各地の被害状況を撮影しています。【明ち319-6(1)】

6-2「罹災者救恤に付き金員下賜の件」明治42年(1909)8月21日
震災から1週間後、宮内省は罹災者救恤のため、滋賀県に1500円の下賜金を決定します。8月23日には、侍従北条氏恭(河内狭山藩最後の藩主)が滋賀県に遣わされ、被災地の状況を視察しました。知事官房はその前日、出迎える官員や郡長に対して、北条が「シルクハツト」を被り、「フロクコート」を着用していると、その特徴を伝えています。北条は29日まで滞在し、京都に向かう途中の馬場駅で森林課作成の「震災地写真帖」を受け取ったようです。【明え112(227)】

6-3「臨時救療所設置規程」明治42年(1909)8月27日
明治42年8月15日、東浅井郡役所は郡内5か所に治療所を設置し、近隣の医師の協力を得て、被災者の治療にあたりました。日本赤十字社滋賀支部も救護班を組織し、同所にのべ33名の医者・看護婦などを派遣しました。しかし同社は、月末には引き揚げる予定であったため、郡役所は県医師会東浅井郡支部と交渉して、新たに臨時救療所を設置します。この救療所は、虎姫村大字五村に置かれ、被災した負傷者や、貧しい患者の治療を担いました。【明ふ158-3(5)】

6-4「震災記録(東浅井郡)」明治43年頃(1910)
東浅井郡役所が県に提出した震災記録。「総説」「救恤」「社会ノ同情」「善後策及復旧」「其他」の5章構成で、被災状況が詳細にまとめられています。これによれば、被災後は様々な「蜚語流説」(根拠のない噂)が流れたようです。例えば、明治42年は「死に年」に通ずるとして、8月28日に死に至る灰が降るという噂がその1つです。人びとはその死から免れるために、「秘法ノ栗飯」を買い求めたようで、噂を流した「山師」は、後日逮捕されています。【明ふ162-1(17)】

