滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

5-1「国費救助の件」明治41年(1908)7月8日

 生活困窮者に支給される町村の救助総額は、明治20年代末から急増し、明治30年代は平均3,805円にもおよびました。それに合わせて国からの救恤額も増え、同時期の平均額は2,183円となっています。これに危機感を強めた内務省は、明治41年5月21日、恤救規則の本旨を強調し、「濫給ノ弊」をなくすよう求めました。同年7月には、県より各郡市にその旨が伝えられ、その結果、国からの救恤を受けていた者全員が給付を打ち切られることになります。【明い272(62)】

 

5-2「蒲生郡鎌掛村の貯蓄組合(満月会)」 明治42年(1909)

 明治41年10月、第二次桂内閣は勤勉と倹約を強調した戊辰詔書を発布し、国民生活の引き締めを図りました。同43年には、甲賀郡伴谷村や蒲生郡鎌掛村がその奨励地方団体として表彰されています。鎌掛村では、同27年5月に満月会という貯蓄組合を結成し、村民は毎月所得に応じて、甲種30銭、乙種15銭、丙種3銭ずつ積み立てていました。同村のように、勤倹貯蓄に励んで公費に頼らない町村は、「模範村」として褒め称えられたのです。【明え266-2(2)】

 

5-3「感化院設立の趣旨(修斉館)」明治42年(1909)4月

 修斉館とは、湖北3郡の大谷派僧侶(修斉会)が坂田郡西黒田村に設立した感化院です。その設立趣旨文には、不良少年も周囲の境遇により「社会ノ害物」になったのであって、教育や信仰を通じて「有用ノ人物」になりうるという信念が示されています。運営費は修斉会員の寄付金に加え、県郡村や大谷派本山の補助金で賄われました。ただし経営は困難を極めたようで、大正2年12月に報恩学園と改称した後、同4年8月に解散の憂き目にあっています。【明そ11(1)】

 

5-4「隣接居住者の相互救療に関する件」 大正元年(1912)10月3日

 明治44年(1911)5月、貧困者の「施薬救療」を掲げる恩賜財団済生会が、皇室の下付金と民間の寄付金により創設されます。病院の設立と施療券の配布が主な事業で、各府県では委託を受けた病院・医師が貧困者の診察・治療を行いました。本文書は、京都府が滋賀県に宛てた照会文で、府県境に近い患者が、両府県の病院を利用できるよう提案しています。滋賀県はその案を受け入れ、その後は福井・岐阜・三重各県とも同様の取り決めを交わしました。【明そ12(36)】

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