滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

3-1「軍隊労苦慰籍のため出金願い」明治27年(1894)8月3日

 明治27年8月1日、明治天皇は宣戦の詔勅を発布し、清国に対して宣戦布告を行いました(実際の戦闘は7月25日から)。翌2日、滋賀県は恤兵事務取扱委員を設置し、軍事援護事業を本格化させていきます。本文書は、その翌日に内務秘書官の安広伴一郎から、県知事大越亨に宛てた書簡の写しです。兵士の労苦をいたわるため、県官員の有志に「夫人ノ名義」で出金を促すよう求めています。同月7日、知事夫人の大越花子らは、募金を呼びかけました。【明か30-2(7)】

 

3-2「台湾征討慰労資募集の件」明治28年(1895)10月22日

 日清両国の戦争は、明治28年4月17日、下関(山口県赤間関市)で結ばれた講和条約で終結を迎えます。しかし同条約で日本に割譲が決まった台湾は、反発を強めて「台湾民主国」として独立し、日本軍との戦闘が継続されました。10月21日、同国は拠点の台南を失い、崩壊を迎えます。本文書は、その翌日に再び、大越花子らの名義で出された募金の呼びかけ文案です。県官員の手によるものですが、兵士の「慰労」は女性の役割とされたようです。【明ひ6-1(2)】

 

3-3「蒲生郡金田村戦時事績」明治40年(1907)6月13日

 「戦時事績」とは、日露戦争の戦中・戦後に取り組まれた軍事援護事業の報告書です。明治39年10月の県訓令に基づき、町村ごとに作成されました。本文書によれば、蒲生郡金田村では、遠征する兵士たちに家族の無事を伝えるため、軍人保護義会という団体を設立したようです。同会には写真部が置かれ、家族や郷里の写真が兵士たちに送られました。その事業は知事の目にも止まり、数々の慰安事業のなかでも「最モ斬新ナルモノ」との評価を受けています。【明ひ15(4)】

 

3-4「明治三十七八年役忠魂碑の図」明治40年(1907)2月14日

 東浅井郡竹生村(現長浜市)戦時事績の添付図です。描かれた忠魂碑は、明治39年10月、戦没者の「功績」を讃え、その「偉名」を後世に伝える目的で建設されたものです。その教育的効果が重視され、「国民ノ養成所」である小学校前が建設地に選ばれました。兵士たちの生還は村の慶事でしたが、戦没者の遺族に対して「聊カ遠慮ヲ要スル」雰囲気もあったようです。そのため、同年4月の祝賀会前の竣工が目指されましたが、結局は間に合いませんでした。【明ひ16(10)】

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