滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

1-1「蒲生郡八幡町水災図面」明治29年(1896)9月10日

 明治29年8月30日から9月初旬にかけて、滋賀県は非常な豪雨に襲われました。琵琶湖の水位は、約1丈3尺(3.9m)に増水し、沿岸部の町村は湖水で溢れました。この図面は、9月11日に蒲生郡役所が県に提出した水害概況報告の添付図です。郡役所や警察所、裁判所、小学校など、町内の主要建物がことごとく水没しています。特に停車場(駅)付近は水流が激しく、救助船が出されるも押し流され、「空シク傍観スル」ほかなかったようです。【明は10(29)】

1-2「災民救助規則」明治29年(1896)10月5日

水害に被災した住民には、直ちに県より備荒貯蓄金が支給されました。ただし、この救助金は法律により30日以上の支給ができませんでした。そこで県は、災民救助規則を定め、さらに30日を限度(合計60日)として、独自に食料を支給する緊急措置をとります。財源は地方税の救育費で、その対象は身寄りのない一部の被災者にとどまりました。そのため、知事の籠手田安定は、10月12日、臨時の「救済費」を支給するよう内務省に強く訴えています。【明こ195(47)】

 

1-3「疏水路通水量の義に付上申」明治29年(1896)10月20日

琵琶湖大水害の被害が拡大した一因には、9月8日に京都市が琵琶湖疏水の閘門を閉鎖し、水位がさらに上昇したという事情もありました。焦った県は、同月13日、速やかに規定の水量を通水するよう京都府に求めました。しかし同府は、閘門の開閉は京都市の「専権」だとして固く拒みます。本文書は、県から内務省に提出した上申書で、京都府の態度を「条理ニ背キタルモノ」と強く非難し、至急開門して通水させるよう求めています。【明ね39(40)】

 

1-4「瀬田川洗堰築設の義に付上申」 明治29年(1896)10月26日

水害発生当時、淀川(瀬田川)改修工事の一環で、滋賀郡石山村大字南郷に「洗堰」を建設する計画が立てられていました。この堰が完成すれば、瀬田川の流水量が自由に変更できるようになるため、滋賀県民にとっては、水害被害が拡大しかねないと、従来から危機感を強めていました。そして実際、琵琶湖大水害の際には、疏水閘門が閉鎖されたこともあり、県は内務省に対して「公平至当ノ計画」になるよう、強く念をおしています。【明ぬ147(22)】

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