(1)「建仁寺出張からの復命書」 明治12年(1879)2月27日
明治維新後、初めて滋賀県が外国貴賓への対応を迫られたのは、明治12年2月のことでした。当時来日していたイギリス庶民院議員のエドワード・ジェームス・リード(Edward James Reed)が、京阪遊覧後に東海道を通って帰京するので、その応接を内務省より求められたのです。県では「接待等殊(こと)ニ不馴(ふなれ)」のため、庶務課駅逓部の内堀助長をリードが宿泊していた建仁寺に派遣します。本文書はその復命書で、事前に必要な応接準備を報告しています。【明か20-1(1)】
(2)「外国貴紳接待掛の任命」 明治12年(1879)4月15日
リード議員を無事に見送った翌月の4月2日、今度は太政官よりアメリカ前大統領のユリシーズ・S・グラント(Ulysses S.Grant)の応接を命じられます。早速県は、リード議員に随行した曽根直行・内堀助長を含む6名を、外国貴紳接待掛に任命しました。内堀は当時26歳の青年で、庶務課簿書専務を経て、明治7年4月より同課駅逓専務(後に同部と改称)を務めていました。内堀はグラントをはじめ、貴賓応接の主要な事務を担うことになります。【明い107(129)】
(3)「米国前大統領遊覧に付き伺い」 明治12年(1879)4月23日
外国貴紳接待掛の曽根直行・内堀助長より県令に宛てた伺い書。グラント前大統領の行程が未定のなか、リード議員の前例を参考にして、京都より東海道を陸路で帰京すると想定しています。その際の遊覧場所として、三井寺(園城寺)、唐崎、日吉神社、石山寺の4か所を挙げ、各地に休憩所を設けるとともに、由緒や所蔵する宝物等を調査する計画を伺い出ました。県令の籠手田安定は、この計画を認可した上で、さらに道路の修繕も命じています。【明か20-2(1)】
(4)「石山・三井寺・唐崎略記」 明治12年(1879)5月頃
明治12年4月28日、外国貴紳接待掛の要請を受けた石山寺と園城寺は、各寺院の概略を記した「略記」を県に提出しています。本文書はそれに唐崎を加えて取りまとめたもので、来るべきグラント前大統領の来県に備えた「滋賀県ガイドブック」といえます。しかし当年は、コレラが流行したため、結局グラントが滋賀県に立ち寄ることはありませんでした。その一方、その後も外国貴賓は本県を相次いで訪れ、接待掛は休む暇なく対応に追われていくのです。【明か21(22)】