(5)「稟議の様式」 明治6年(1873)8月3日
簿書専務の事務は、狭義の文書管理にとどまらず、「布達」(明治8年以前は布令)と呼ばれる法令の告示に深く関わりました。布達の文案は、戸籍専務や社寺専務など、各事務の担当部署が作成し、その発令には県令(後の県知事)の決裁を得ることになっていました(稟議制)。本資料はその様式で、「主任」欄は文書の作成者、「稟議」欄は同じ部署内の官員、「閲」欄は同部署の責任者の印がそれぞれ必要であると記されています。【明い46-3(18)】
(6)「伊藤紀の過失」 明治期
布達書が作成される際は、簿書専務がその文面に目を通し、誤りがないか確認(「勘署」)する役割を担いました。さらに同専務は、布達草案(後の原議)の清書もこなし、少なくとも明治11年以後は、すべての布達草案を清書しています。本資料は、伊藤紀の履歴書ですが、明治8年頃、布達書の誤りに気付かないまま、頒布するという過失を犯したことが記されています。ただしこの時は、発覚前に自ら申し出たことで、お咎めなしとなったようです。【明え149(1)】
(7)「布達番号簿」 明治5年(1872)
簿書専務の確認後、布達は「布達書」(布令書)として印刷に付され、区・町村ごとに戸数に応じた部数が頒布されるとともに、各地の掲示場(明治8年廃止)で告示されました。布達書は、「布達番号録(簿)」で管理され、簿書専務の手で発令日や文書番号、文書件名、印刷部数などが書き込まれました。印刷された布達書は、少なくとも明治8年以後は、簿冊に綴じて管理されました。【明い34-1(1)】
(8) 「記録書目進達書」 明治9年(1876)5月19日
現在、県が所蔵している「布達編冊」は、明治7年以前は欠番が多々あり、全ての布達書(布令書)が綴じられていません。明治8年4月の太政官達を受けて、新たに編綴されたものと思われます。同達では、記録文書が失われれば、「後日ノ照会」ができず、事務上の困難が生じるとして、保存方法を設けて大切に保管するよう府県に求めていました。その際、簿冊目録の提出も命じられたことから、県は毎年各課の目録を内務省に提出しています。【明う58(17)】