滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

 

2-1『滋賀県風光調査報告』 大正4年(1915)4月24日

 公共事業が拡大の一途をたどるなか、近江八景に代表される県内の景勝地も、新たな開発の対象となっていきました。大正2年12月の県会では、「遊覧地」にふさわしい環境整備のため、風光調査の実施を求める建議を可決しています。翌年県内務部は、本多静六(東京帝国大学教授)らに調査を依頼し、本資料をとりまとめました。将来の風景利用には、必ず自動車道が主になるとして、県下全域を包含する大中小諸種の回遊線網計画が提言されています。【大て11-1(3)】

 

2-2「湖南勝区の仮指定」 大正10年(1921)8月30日

 資料2-1の計画は、積極政策を掲げる堀田知事の下で、大正9年度より予算化され、昭和11年に完成を迎えました(琵琶湖周遊道路)。その一方、大正8年6月に史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身)が施行されると、県は翌9年6月に滋賀県保勝会を発足させ、保存すべき景勝地等の調査も行っています。10年8月には、近江八景の名所などを「湖南勝区」と認定(仮指定)し、工場新設等の規制を強めました。(『滋賀県公報』滋賀県蔵)

 

 

2-3「湖南勝区域延長の建議案」 大正11年(1922)8月

 湖南勝区は、交通の便や水質がよく、レーヨン工場の立地としても大変適していたため、大正10年6月、鐘淵紡績会社はその隣接地域(比叡辻)1万8000坪を買収し、工場建設を試みます。しかしこの地域は、「湖南勝区中ノ雄」として知られた来迎寺(11世紀に源信が再興)の門前であったことから、県保勝会の牧野信之助(県史編纂嘱託)は、県に勝区域の延長を要望しました。ただし結局この建議は認められず、大正15年に阪本製糸所が建設されます。【大お1-3(6)】

 

2-4「湖南勝区縮少に付請願書」 大正15年(1926)7月15日

 大津の産業界もまた、湖南勝区の工業開発に大きな期待を抱いていました。大正15年7月、大津工業会は「本県ノ富ヲ増殖スル」ため、同区縮小を求める建議書を提出しています。昭和2年3月には石山村長からも、粟津の景勝地は工場建設や住宅増加の影響で既に破壊されており、到底名勝地区として保存の価値なしという意見書が出されました。その結果、昭和3年9月には、一部の指定が解除されるに至り、景勝地保存の観点は後退していくことになるのです。【明せ106(1)】

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